第八章 三種のカルマ — タットヴァ・ボーダ
詩節 48–53 / 目次へ
48. カルマの三種
カルマには何種類あるのか
これから積むもの、すでに積まれたもの、
いま動き出したもの、という違いによって、
三種類ある
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
कर्माणि कतिविधानि सन्तीति चेत् ।
आगामिसंचितप्रारब्धभेदेन त्रिविधानि संति ॥
karmāṇi katividhāni santīti cet ।
āgāmisaṃcitaprārabdhabhedena trividhāni saṃti ॥
解説
解脱者の境地を、カルマという角度から照らす問答が始まる。
「私はブラフマンにほかならない」という直接の知は、いっさいのカルマの束縛を解くと言われた。では、その解かれるカルマとは、そもそもどのようなものか。答えはまず種類を数えるところから始まり、これから積むもの、すでに積まれたもの、いま動き出したものの三つが挙げられる。
三つの区分は、行いの蓄えを時間の三つの相に振り分けた数え方といえる。すでに積まれたものは過去から持ち越され、いま動き出したものは現在の生を形づくり、これから積むものは未来に実る。
同じ「行いの蓄え」であっても、知を得た者にとってどう働くかは、この三つで大きく異なる。続く問答は、三つを一つずつ定義したうえで、それぞれの行方を見届けていく。
49. これから積むカルマ
知が生まれたのち、
知を得た者の身体によってなされる、
善悪のかたちをとった行い、
それがこれから積むカルマと呼ばれる
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
ज्ञानोत्पत्त्यनन्तरं ज्ञानिदेहकृतं पुण्यपापरूपं कर्म यदस्ति तदागामि कर्मेत्यभिधीयते ।
jñānotpattyanantaraṃ jñānidehakṛtaṃ puṇyapāparūpaṃ karma yadasti tadāgāmi karmetyabhidhīyate ।
50. すでに積まれたカルマ
数限りない生まれの種となって、
過去に積み上げられたまま
残っている行いのすべて、
それがすでに積まれたカルマと
知られるべきである
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
अनन्तकोटिजन्मनां बीजभूतं सद्यत् कर्मजातं पूर्वोपार्जितं तिष्ठति तत् सञ्चितं ज्ञेयम् ।
anantakoṭijanmanāṃ bījabhūtaṃ sadyat karmajātaṃ pūrvopārjitaṃ tiṣṭhati tat sañcitaṃ jñeyam ।
解説
二つめに、すでに積まれたカルマ(サンチタ)が定義される。過去の数限りない生のあいだに積み重ねられ、まだ実を結ばずに残っている行いの蓄えである。
これから積む分と違い、こちらはすでに過去から持ち越されている重みである。それは将来の生まれの「種」だと言われる。数えきれない生まれの種が、ここに蓄えられているのである。注釈も、多くの生まれでなされた善悪が個我のうちに集まりとどまっていると補う。
まだ実を結んでいない分だけを指す、という限定にも意味がある。蓄えのすべてが一度の生で果報になるわけではない。生まれるたびにその一部が動き出し、残りは種のまま持ち越される。輪廻が果てしなく続く仕組みが、この蓄えの尽きなさによって説明されている。
51. いま動き出したカルマ
この身体を生み出し、
まさにこの世で楽と苦などをもたらす行い、
それがいま動き出したカルマであり、
味わうことによって滅びる
いま動き出したカルマは、
味わうことによってのみ尽きる、
という定則があるからである
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
इदं शरीरमुत्पाद्येहलोक एव सुखदुःखादिप्रदं यत्कर्म तत्प्रारब्धं भोगेन नष्टं भवति ।
प्रारब्धकर्मणां भोगादेव क्षय इति न्यायात् ।
idaṃ śarīramutpādyehaloka eva sukhaduḥkhādipradaṃ yatkarma tatprārabdhaṃ bhogena naṣṭaṃ bhavati ।
prārabdhakarmaṇāṃ bhogādeva kṣaya iti nyāyāt ।
解説
三つめに、いま動き出したカルマ(プラーラブダ)が定義される。積まれた蓄えのうち、現にこの身体を生み出し、この世での楽と苦として、すでに果報を結び始めている分である。
この分だけは、知によっても消えず、味わい尽くすことでしか尽きない。それが定則だと本文は言い切る。注釈は欄外に古い詩を掲げ、なした善悪の行いは必ず味わわれねばならず、味わわずには幾億の劫を経ても滅びない、と裏づけている。
この定則は、知を得た人にもなお老いや病、境遇の浮き沈みが訪れることの説明にもなっている。動き出した分は、身体が尽きるまで走り続ける。ただし、それを受ける当人がもはや身体を「私」としていないなら、同じ果報も束縛としては働かない。
52. 知によるカルマの滅び
すでに積まれたカルマは、
「私はブラフマンにほかならない」という
確信のかたちをとった知によって滅びる
「知の火は、アルジュナよ、
すべてのカルマを灰にする」
という主の言葉があるからである
これから積むカルマもまた、
知によって滅びる
さらに、これから積むカルマは、
蓮の葉の上の水のように、
知を得た者には付着しない
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
सञ्चितं कर्म ब्रह्मैवाहमिति निश्चयात्मकज्ञानेन नश्यति ।
ज्ञानाग्निः सर्वकर्माणि भस्मसात्कुरुतेऽर्जुन ।
इति भगवद्वचनात् ।
आगामि कर्म अपि ज्ञानेन नश्यति ।
किञ्चागामिकर्मणो नलिनीदलगतजलवज्ज्ञानिनां सम्बन्धो नास्ति ।
sañcitaṃ karma brahmaivāhamiti niścayātmakajñānena naśyati ।
jñānāgniḥ sarvakarmāṇi bhasmasātkurute'rjuna ।
iti bhagavadvacanāt ।
āgāmi karma api jñānena naśyati ।
kiñcāgāmikarmaṇo nalinīdalagatajalavajjñānināṃ sambandho nāsti ।
解説
三つのカルマが、知を得た者にどう決着するか。その答えが示される。
数限りない生のあいだに積まれた蓄えは、「私はブラフマンにほかならない」という確信の知が生じたとき、根ごと滅びる。本文はバガヴァッド・ギーターの一句を引き、知の火がすべてのカルマを灰にすることの典拠とする。
知ののちの行いも、新しい蓄えとして積まれることがない。蓮の葉が水に濡れないように、知を得た者は、行いのただなかにあっても行いに汚されない。行いをやめることではなく、行いが付着しなくなることが、ここでの解放である。
蓮の葉のたとえは、ウパニシャッド以来の古い言い回しである。チャーンドーギヤ・ウパニシャッドは、蓮の葉に水が付かないように、知る者には悪が付着しないと説いており、本文はその伝統のたとえを、これから積むカルマの行方に当てている。
なお、ギーターの引用句は1852年版のみにあり、これから積むカルマも知によって滅びるという一文は底本のみにある。
53. 讃える者とそしる者
さらに、知を得た者を讃え、
敬い、礼拝する者たちのもとへは、
知を得た者のなした、
これから積まれる善のカルマが行く
知を得た者をそしり、
憎み、苦しみを与える者たちのもとへは、
知を得た者のなした、
これから積まれるもの、
いまなされつつあるものと呼ばれる
悪のカルマが、すべて行く
聖典もまた言う、
「友は善い行いを、
憎む者は悪い行いを受け取る」と
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
किञ्च ये ज्ञानिनं स्तुवन्ति भजन्त्यर्चयन्ति तान्प्रति ज्ञानिकृतागामिपुण्यं गच्छति ।
ये च ज्ञानिनं निन्दन्ति द्विषन्ति दुःखप्रदानं कुर्वन्ति तान्प्रति ज्ञानिकृतं सर्वमागामिक्रियमाणपदवाच्यं कर्म पापात्मकं गच्छति ।
तथा च श्रुतिः ।
सुहृदः पुण्यकृत्यां द्विषन्तः पापकृत्यां गृह्णन्तीति ।
kiñca ye jñāninaṃ stuvanti bhajantyarcayanti tānprati jñānikṛtāgāmipuṇyaṃ gacchati ।
ye ca jñāninaṃ nindanti dviṣanti duḥkhapradānaṃ kurvanti tānprati jñānikṛtaṃ sarvamāgāmikriyamāṇapadavācyaṃ karma pāpātmakaṃ gacchati ।
tathā ca śrutiḥ ।
suhṛdaḥ puṇyakṛtyāṃ dviṣantaḥ pāpakṛtyāṃ gṛhṇantīti ।
解説
知を得た者に付着しないはずの、これから積むカルマの行方が、ここで語られる。行いの果報は消え失せるのではなく、まわりの人々のもとへ行くという。
知を得た者を讃え、敬う者たちには、その人のなした善の分が行く。そしり、憎み、苦しめる者たちには、悪の分が行く。知を得た者自身はどちらにも縛られず、果報は、その人にどう向き合ったかに応じて、向き合った側へ流れていく。
一見すると奇妙な考えだが、筋は通っている。果報は受け手を必要とするのに、知を得た者はもはや行い手としても受け手としても立たない。受け手を失った果報が、その人と縁を結んだ者たちのもとへ行く、という説明である。同時にこの一段は、知を得た者にどう向き合うかがそのまま自分の果報になる、という実践的な勧めにもなっている。
本文は聖典の言葉を引いて、この考えの典拠とする。注釈も欄外に同じ趣旨の聖句を掲げている。なお、この聖典引用の一文は1852年版のみにある。