非二元堂

第七章 生きながらの解脱者 — タットヴァ・ボーダ

詩節 44–47 / 目次へ

44. 知の誕生と解脱者

このように、ヴェーダーンタの言葉により、
まことの師の教えによって、
生きとし生けるもののすべてに
ブラフマンを見る知が芽生えた者、
その人が、生きながらの解脱者と呼ばれる

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

एवं वेदान्तवाक्यैः सद्गुरूपदेशेन सर्वेष्वपि भूतेषु येषां ब्रह्मबुद्धिरुत्पन्ना ते जीवन्मुक्ता इत्युच्यन्ते ।

evaṃ vedāntavākyaiḥ sadgurūpadeśena sarveṣvapi bhūteṣu yeṣāṃ brahmabuddhirutpannā te jīvanmuktā ityucyante ।

解説

個我とイーシュヴァラの不二の教えが、ここで一人の人間の姿に結ばれる。生きとし生けるもののすべてにブラフマンを見る知が芽生えた者、それが生きながらの解脱者(ジーヴァンムクタ)である。

知の生まれる手立てとして、ヴェーダーンタの言葉と、まことの師の教えという二つが並べて挙げられる。聖典の言葉だけでも、師だけでもなく、両者が合わさって知は芽生えるとされる。

解脱は死後に持ち越されるものではない。身体を捨てることを待たず、生きているそのさなかに、知によって起こる。注釈もこの点を強調している。

「生きとし生けるもののすべてに」という言い回しにも意味がある。この知は、自分の内側だけに閉じた私的な悟りではない。すべてのものにブラフマンを見るとき、世界はもはや「私」を脅かす他者の集まりではなくなる。解脱が生のさなかで成り立つのは、このためでもある。

45. 解脱者への問い

では、生きながらの解脱者とは誰か

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

ननु जीवन्मुक्तः कः ।

nanu jīvanmuktaḥ kaḥ ।

解説

前の段で名の挙がった生きながらの解脱者とは、いったい誰のことか。本書の問答は、聞き手のこの当然の疑問を受けとめて、解脱者の定義へと進んでいく。

解脱が概念の説明で終わらず、一人の人間の生きた姿として問われるところに、本書の実際的な関心がある。教えの到達点は、理屈の整合ではなく、それを生きる人の在りようによって示される。

46. 直接の知

「私は身体だ、私は人間だ、
私はバラモンだ、クシャトリヤだ、
ヴァイシャだ、シュードラだ」
と固く思い込むのと同じだけの確かさで、

「私はバラモンでもクシャトリヤでも
ヴァイシャでもシュードラでもなく、
人間ですらない
むしろ、何ものにも縛られず、
存在・意識・至福を本性とし、
自ら光り、すべてのものの内に宿って司る、
意識の虚空そのものである
私はそれだ」

と、直に知る者、
それが生きながらの解脱者である

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

यथा देहोऽहं पुरुषोऽहं ब्राह्मणोऽहं क्षत्रियोऽहं वैश्योऽहं शूद्रोऽहमस्मीति दृढनिश्चयस्तथा नाहं ब्राह्मणो न क्षत्रियो न वैश्यो न शूद्रो न पुरुषः किन्त्वसङ्गः सच्चिदानन्दस्वरूपः स्वप्रकाशरूपः सर्वान्तर्यामी चिदाकाशरूपोऽहमस्मीति दृढनिश्चयरूपापरोक्षज्ञानवान् जीवन्मुक्तः ।

yathā deho'haṃ puruṣo'haṃ brāhmaṇo'haṃ kṣatriyo'haṃ vaiśyo'haṃ śūdro'hamasmīti dṛḍhaniścayastathā nāhaṃ brāhmaṇo na kṣatriyo na vaiśyo na śūdro na puruṣaḥ kintvasaṅgaḥ saccidānandasvarūpaḥ svaprakāśarūpaḥ sarvāntaryāmī cidākāśarūpo'hamasmīti dṛḍhaniścayarūpāparokṣajñānavān jīvanmuktaḥ ।

解説

生きながらの解脱者の定義である。手がかりは、思い込みの確かさの置きかえにある。

バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラは、インド伝統社会の四ヴァルナ(階層区分)である。バラモンは祭式・学問を担う司祭層、クシャトリヤは統治・武力を担う王族・武士層、ヴァイシャは商業・農業を担う庶民層、シュードラは奉仕労働を担う層にあたる。生まれによってこれらの一つに属することが、人の根本的な自己規定を形成していた。

人は「私は身体だ、この身分の者だ」と、疑いようもないほど固く信じている。その同じ固さで、「私はどの身分の者でもなく、人間ですらない。何ものにも縛られず、自ら光り、すべての内に宿る、意識の虚空そのものだ」と直に知る者、それが生きながらの解脱者である。

ここで否定されるのは、生まれや社会的な立場による「私」の規定である。知識として頭で認めるのではなく、身体への思い込みと同じだけの揺るぎなさで知り抜く。思い込みの根を入れ替えてしまうところに、解脱者の解脱者たるゆえんがある。

「私はそれだ」という結びの言い回しは、先に読み解かれた「なんじはそれなり」が、一人称の確信に転じた形でもある。教えが他人の言葉であるうちは信にとどまり、自分の言葉になったとき、それは直接の知と呼ばれる。

47. カルマの束縛からの解放

「私はブラフマンにほかならない」
というこの直接の知によって、
いっさいのカルマの束縛から
解き放たれた者、
それが生きながらの解脱者である

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

ब्रह्मैवाहमस्मीत्यपरोक्षज्ञानेन निखिलकर्मबन्धविनिर्मुक्तो जीवन्मुक्तः ।

brahmaivāhamasmītyaparokṣajñānena nikhilakarmabandhavinirmukto jīvanmuktaḥ ।

解説

解脱者の定義が、もう一度短い言葉に凝縮される。「私はブラフマンにほかならない」という直接の知が、いっさいのカルマの束縛を解く。

直接の知(アパロークシャ・ジュニャーナ)とは、推論でも信仰でもなく、目の前のものを見るように直に知ることだと注釈は補う。聞きかじりの理解がどれほど積み重なっても束縛は解けず、この直接の知だけが解脱をもたらすとされる。

「私はブラフマンである」と一人称で言い切る定式は、ブリハダーラニヤカ・ウパニシャッドが伝える大いなる言葉に連なる。本書の言い回しには「ほかならない」という強めが添えられ、ためらいの余地を残さない。

束縛の正体がここでカルマと言い換えられたことで、問答は次の主題へ橋を架ける。解かれるというそのカルマとは、そもそも何なのか。