非二元堂

第六章 個我とイーシュヴァラ — タットヴァ・ボーダ

詩節 39–43 / 目次へ

39. 個我

粗大な身体を「私」と思い込む、
ブラフマンの映し身が、
個我と呼ばれるものとなる

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

स्थूलशरीराभिमानि जीवनामकं ब्रह्मप्रतिबिम्बं भवति ।

sthūlaśarīrābhimāni jīvanāmakaṃ brahmapratibimbaṃ bhavati ।

解説

世界の成り立ちの説明が一段落し、その世界の中で「私」として生きているものへと話が移る。

粗大な身体を「私」と思い込む、ブラフマンの映し身が、「個我(ジーヴァ」である。鏡に顔が映るように、内なる器官という限定にブラフマンが映ったもの、それが一人ひとりの「私」だと注釈は補う。

映し身そのものは、もとの顔と別のものではない。ただ、映る場所をまとい、その場所である身体を「私そのもの」と引き受けたとき、ブラフマンは個我という名で呼ばれることになる。

世界の成り立ちを順に数え上げてきた歩みは、この一文のためにあった。生み出された道具立ての全体を「私」と引き受けたとき、何が起こるのか。ここから、その取り違えの構造と、ほどき方が主題になる。

40. 個我とイーシュヴァラの区別

この個我こそが、
本来は一なる真我のうちに、
個我とイーシュヴァラという区別を思い描く

どうしてか

無明むみょうをまとった真我が、個我と呼ばれる
マーヤーをまとった真我が、
イーシュヴァラと呼ばれる

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

स एव जीव आत्मन्येव प्रकृत्या जीवेश्वरभेददृष्टिं कल्पयति ।
कथमिति चेत् ।
अविद्योपाधिः सन्नात्मा जीव इत्युच्यते ।
मायोपाधिः सन्नात्मा ईश्वर इत्युच्यते ।

sa eva jīva ātmanyeva prakṛtyā jīveśvarabhedadṛṣṭiṃ kalpayati ।
kathamiti cet ।
avidyopādhiḥ sannātmā jīva ityucyate ।
māyopādhiḥ sannātmā īśvara ityucyate ।

解説

個我とイーシュヴァラの区別は、どこから来るのか。本詩節の答えは、まとうものの違いだけだ、というものである。

無明むみょうをまとった真我が個我と呼ばれ、マーヤーをまとった真我がイーシュヴァラと呼ばれる。一人ひとりを包む個別の覆いが無明であり、世界全体を立ち上げる力がマーヤーである。覆いの規模が違うだけで、その内にあるものは同じ一つの真我にほかならない。

しかも、この区別を思い描いているのは、ほかならぬ個我自身である。本来は一なるもののうちに、「私」と「主宰者」という二つを描き出してしまう。区別は外から与えられたものではなく、個我のうちで思い描かれたものにすぎない。

鏡が小さければ映りも小さく、曇っていれば映りも曇る。しかし、映っている顔そのものに大小も曇りもない。まとうものの違いを、映っているものの違いと取り違えるところに、個我の小ささの感覚は始まっている。

41. 区別を超える知

このまとうものの違いによる、
個我とイーシュヴァラを別とする見方が
続くかぎり、
生と死を繰り返す輪廻は止まない

それゆえ、
個我こそイーシュヴァラ、
イーシュヴァラこそ個我である、
というように、
両者が別ではないと知るがよい

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

एवमुपाधिभेदाज्जीवेश्वरभेददृष्टिर्यावत्पर्यन्तं तिष्ठति तावत्पर्यन्तं जन्ममरणादिरूपसंसारो न निवर्तते ।
तस्मात् कारणाज्जीव एवेश्वर ईश्वर एव जीव इतीतराभेददृष्टिं जानीयात् ।

evamupādhibhedājjīveśvarabhedadṛṣṭiryāvatparyantaṃ tiṣṭhati tāvatparyantaṃ janmamaraṇādirūpasaṃsāro na nivartate ।
tasmāt kāraṇājjīva eveśvara īśvara eva jīva itītarābhedadṛṣṭiṃ jānīyāt ।

解説

まとうものの違いから生まれた、個我とイーシュヴァラを別とする見方。その見方が続くかぎり、生まれては死ぬことを繰り返す輪廻は止まない、と本詩節は言い切る。

輪廻の原因とされているのが、行いの良し悪しではなく、一つの見方だという点に注意したい。区別が思い描かれたものにすぎない以上、その終わりも、見方が正されることによってしか訪れない。

それゆえ本文は、個我こそイーシュヴァラ、イーシュヴァラこそ個我である、と両者の不二を知るように勧める。

ここに、本書の冒頭から流れている立場があらためて現れる。縛りが見方である以上、それを解くのも見方であって、行いの積み増しではない。不二を知ることが、輪廻を止めるただ一つの鍵として差し出される。

42. 同一性への疑問

問い

自我を持ち、わずかしか知らない個我と、
自我を持たず、すべてを知るイーシュヴァラと
のあいだに、
なんじはそれなり」という大いなる言葉によって、
どうして同一だという理解が成り立つのか

両者は相反する性質を負っているのだから

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

ननु साहंकारस्य किंचिज्ज्ञस्य जीवस्य निरहंकारस्य सर्वज्ञस्य ईश्वरस्य तत्त्वमसीति महावाक्यात् कथमभेदबुद्धिः स्यात् उभयोर्विरुद्धधर्माक्रान्तत्वात् ।

nanu sāhaṃkārasya kiṃcijjñasya jīvasya nirahaṃkārasya sarvajñasya īśvarasya tattvamasīti mahāvākyāt katham abheda-buddhiḥ syāt ubhayorviruddha-dharmākrāntatvāt ।

解説

個我とイーシュヴァラは別ではない、という教えに対して、ここで反論が立てられる。自我を抱え、わずかしか知らない個我と、自我を離れ、すべてを知るイーシュヴァラ。性質がことごとく相反する両者を、どうして同一と理解できるのか、という問いである。

これは言いがかりではなく、誰もが抱く素朴な疑問でもある。ちっぽけな「私」が世界の主宰者と同じだと言われても、にわかには受け取れない。注釈もまた、この疑問は自然なものだと認めている。

教えにあえて反論をぶつけ、それに答えて理解を深めるこの進め方は、ヴェーダーンタの問答の定石である。疑問は抑え込まれるのではなく、言葉にされてはじめて解かれる。反論が鋭いほど、続く答えの切れ味も増す。

なお、「なんじはそれなり」という大いなる言葉への言及は底本の読みで、1852年版の本文にはない。

43. 「汝」と「それ」の真意

そうではない

粗大な身体・微細な身体を「私」と思い込む者、
それが「なんじ」という語の
指す表向きの意味である

いっさいのまとうものから解き放たれ、
深い瞑想の境地に至った清らかな意識、
それが「汝」という語の
真に指し示すものである

同じように、すべてを知るといった性質を
具えたイーシュヴァラが、
「それ」という語の表向きの意味であり、
まとうもののない清らかな意識が、
真に指し示すものである

この、真に指し示すものを取って見れば、
個我とイーシュヴァラが別ではないとすることに、
何の妨げもない

原文(デーヴァナーガリー・IAST)

इति चेन्न ।
स्थूलसूक्ष्मशरीराभिमानी त्वम्पदवाच्योऽर्थ उपाधिविनिर्मुक्तं समाधिदशासम्पन्नं शुद्धचैतन्यं त्वम्पदलक्ष्योऽर्थः ।
एवं सर्वज्ञत्वादिविशिष्ट ईश्वरस्तत्पदवाच्यः ।
उपाधिशून्यं शुद्धचैतन्यं लक्ष्यम् ।
एवं च लक्ष्यार्थमादाय जीवेश्वरयोरभेदे बाधकाभावः ।

iti cenna ।
sthūlasūkṣmaśarīrābhimānī tvampadavācyo'rtha upādhivinirmuktaṃ samādhidaśāsampannaṃ śuddhacaitanyaṃ tvampadalakṣyo'rthaḥ ।
evaṃ sarvajñatvādiviśiṣṭa īśvarastatpadavācyaḥ ।
upādhiśūnyaṃ śuddhacaitanyaṃ lakṣyam ।
evaṃ ca lakṣyārthamādāya jīveśvarayorabhede bādhakābhāvaḥ ।

解説

反論への答えである。両者の隔たりは、言葉の意味を二重に取ることで解かれる。

なんじはそれなり」(タット・トヴァム・アシ)という教えの「汝」も「それ」も、表向きには、身体をまとった個我と、すべてを知るイーシュヴァラという、相反するものを指す。だが、まとうものを取り払って言葉が真に指し示すものを見れば、どちらも同じ一つの清らかな意識にほかならない。表の意味で衝突するものが、奥の意味で一致する。

反論が突いていたのは、表向きの意味どうしの矛盾だった。教えが指しているのは、その奥にあるものである。意味の層を取り違えなければ、個我とイーシュヴァラの不二に、何の妨げもない。

「汝はそれなり」は、チャーンドーギヤ・ウパニシャッドで父が子に繰り返し説いたと伝えられる、ヴェーダーンタの大いなる言葉の代表である。本書はその一句の読み方を、表向きの意味と真に指し示すものとの二層の区別によって示し、不二の教えの要をここに置いている。