第二章 真我と三つの身体 — タットヴァ・ボーダ
詩節 12–17 / 目次へ
12. 真我への問い
真我とは何か
粗大な身体・微細な身体・
原因の身体という三つの身体のいずれでもなく、
覚醒・夢・熟睡の三つの状態を
見とどける観察者であり、
存在・意識・至福をその本性として、
変わらず在り続けるもの、それが真我である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
आत्मा कः ।
स्थूलसूक्ष्मकारणशरीराद्व्यतिरिक्तोऽवस्थात्रयसाक्षी सच्चिदानन्दस्वरूपो यस्तिष्ठति स आत्मा ।
ātmā kaḥ ।
sthūlasūkṣmakāraṇaśarīrādvyatirikto'vasthātrayasākṣī saccidānandasvarūpo yastiṣṭhati sa ātmā ।
解説
真我が、まず「何でないか」を重ねることで指し示される。
真我は、粗大・微細・原因という三つの身体(シャリーラ)のどれでもない。覚醒・夢・熟睡という三つの状態を、移り変わりの外から見とどける「観察者(サークシン)」である。そして、存在・意識・至福(サッチダーナンダ)をその本性とし、何が現れ何が消えても、変わらず在り続ける。
身体でも、状態でも、それらを「私のもの」として眺めている見る者そのものである、という見定め方が、ここで据えられる。
同時にこの一文は、本書全体の見取り図でもある。三つの身体とは何か、三つの状態とは何か、存在・意識・至福とはどういうことか。ここに畳み込まれた言葉の一つひとつが、以下の問答でほどかれていく。答えをまず短く示し、それから一語ずつ吟味していくこの進め方に、本書の入門書としての性格がよく表れている。
13. 粗大な身体
粗大な身体とは何か
五つに組み合わされた五大元素から成り、
過去の行いによって生じ、
苦楽を味わう座であって、
「在る・生まれる・育つ・
変わる・衰える・滅びる」
という六つの変化を受けるもの、
それが粗大な身体である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
स्थूलशरीरं किम् ।
पञ्चीकृतपञ्चमहाभूतैः कृतं सत् कर्मजन्यं सुखदुःखभोगायतनम् ।
अस्ति जायते वर्धते विपरिणमतेऽपक्षीयते विनश्यतीति षड्भावविकारैर्युक्तं यत् तत् स्थूलशरीरम् ।
sthūlaśarīraṃ kim ।
pañcīkṛtapañcamahābhūtaiḥ kṛtaṃ sat karmajanyaṃ sukhaduḥkhabhogāyatanam ।
asti jāyate vardhate vipariṇamate'pakṣīyate vinaśyatīti ṣaḍbhāvavikārairyuktaṃ yat tat sthūlaśarīram ।
解説
三つの身体のうち、まず最も外側の粗大な身体(ストゥーラ・シャリーラ)が定義される。
五大元素(パンチャ・マハーブータ)とは、虚空・風・火・水・地の五つである。これらが一定の仕方で混ぜ合わされ(パンチーカラナ)、粗大な物質が形成される。粗大な身体は、その組み合わせからできた目に見える肉体である。
それは過去の行いの結果として生じ、苦楽を味わう座となる。行いの結果として与えられた、という規定には、この身体が偶然の塊ではなく、過去の行為の実りが経験されるための場である、という見方が含まれている。
「在る・生まれる・育つ・変わる・衰える・滅びる」という六つの変化を受ける、と数え上げられる点が要となる。六つの変化は、肉体の一生をそのまま数えたものであり、生涯のどの時点を取っても、この身体は変化の途中にある。これらの変化を受けるものは、変化の外にある真我とは別だ、という見分けが、ここに含まれている。
誰にとっても、「私」という思いが最も強く貼り付いているのがこの肉体である。だから三つの身体の見分けは、最も外側の、最も見やすいところから始まる。
14. 微細な身体
微細な身体とは何か
まだ組み合わされていない五大元素から成り、
過去の行いによって生じ、
苦楽などを味わう道具となるもの
五つの知覚器官、五つの行為器官、
五つの生命の気、心が一つ、知性が一つ、
こうして十七の部分とともに在るもの、
それが微細な身体である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
सूक्ष्मशरीरं किम् ।
अपञ्चीकृतपञ्चमहाभूतैः कृतं सत्कर्मजन्यं सुखदुःखादिभोगसाधनं पञ्चज्ञानेन्द्रियाणि पञ्चकर्मेन्द्रियाणि पञ्चप्राणादयः मनश्चैकं बुद्धिश्चैका एवं सप्तदशकलाभिः सह यत्तिष्ठति तत्सूक्ष्मशरीरम् ।
sūkṣma-śarīraṃ kim ।
apañcīkṛta-pañca-mahābhūtaiḥ kṛtaṃ sat-karma-janyaṃ sukha-duḥkhādi-bhoga-sādhanaṃ pañca-jñānendriyāṇi pañca-karmendriyāṇi pañca-prāṇādayaḥ manaś-caikaṃ buddhiś-caikā evaṃ saptadaśa-kalābhiḥ saha yat-tiṣṭhati tat-sūkṣma-śarīram ।
解説
二つめは、粗大な身体の内側に働く微細な身体(スークシュマ・シャリーラ)である。
それはまだ組み合わされていない五大元素から成り、苦楽を味わうための道具となる。五つの知覚器官、五つの行為器官、五つの生命の気、そして心と知性を合わせた、十七の部分から組み立てられる。
内訳には、経験の道具立てがひとそろい収まっている。世界を受け取る五つの窓、世界へ働きかける五つの出口、身体を内から生かす五つの気、そして受け取ったものをまとめ、見定める心と知性。経験が成り立つのに要る働きが、ここに数え尽くされている。
目に見える肉体の奥で、感じ・動き・考える働きの全体が、この身体にまとめられている。注釈によれば、死とともにほどけるのは粗大な身体だけで、この十七の組は生まれ変わりを越えて個体に付き従うとされる。
15. 五つの知覚器官
耳、皮膚、目、舌、鼻、
これが五つの知覚器官
耳の守護神は方位の神々、皮膚の守護神は風の神、
目の守護神は太陽神、舌の守護神はヴァルナ、
鼻の守護神はアシュヴィン双神、
これが知覚器官の守護神たち
耳の対象は音を捉えること、
皮膚の対象は感触を捉えること、
目の対象は色かたちを捉えること、
舌の対象は味を捉えること、
鼻の対象は香りを捉えること
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
श्रोत्रं त्वक् चक्षुः रसना घ्राणम् इति पंचज्ञानेन्द्रियाणि ॥
श्रोत्रस्य दिग्देवता ।
त्वचो वायुः ।
चक्षुषः सूर्यः ।
रसनाया वरुणः ।
घ्राणस्य अश्विनौ इति ज्ञानेन्द्रियदेवताः ॥
श्रोत्रस्य विषयः शब्दग्रहणम् ।
त्वचो विषयः स्पर्शग्रहणम् ।
चक्षुषो विषयः रूपग्रहणम् ।
रसनाया विषयः रसग्रहणम् ।
घ्राणस्य विषयः गंधग्रहणम् इति ॥
śrotraṃ tvak cakṣuḥ rasanā ghrāṇam iti paṃcajñānendriyāṇi ॥
śrotrasya digdevatā ।
tvaco vāyuḥ ।
cakṣuṣaḥ sūryaḥ ।
rasanāyā varuṇaḥ ।
ghrāṇasya aśvinau iti jñānendriyadevatāḥ ॥
śrotrasya viṣayaḥ śabdagrahaṇam ।
tvaco viṣayaḥ sparśagrahaṇam ।
cakṣuṣo viṣayaḥ rūpagrahaṇam ।
rasanāyā viṣayaḥ rasagrahaṇam ।
ghrāṇasya viṣayaḥ gaṃdhagrahaṇam iti ॥
解説
微細な身体を成す十七の部分が、ここから一つずつ挙げられていく。まず五つの知覚器官(ジュニャーネーンドリヤ)である。
耳・皮膚・目・舌・鼻のそれぞれに、受け持ちの守護神と、受け持ちの対象が一つずつ定まっている。音・感触・色かたち・味・香りという五つの対象は、この五つの窓を通して経験のなかへ入ってくる。
それぞれの器官に守護神が配されるのは、個々の身体に備わる器官の働きが、宇宙の側の力に支えられて成り立つ、という見方による。器官は単なる肉体の部品ではなく、世界の働きと対になって機能する、という見取り図がここで示される。
列挙そのものにも役割がある。耳は音だけ、目は色かたちだけ、というように、どの器官も受け持ちの外へは出られない。働きの限られた道具であると一つずつ確かめていくことが、では道具を使っているのは何者か、という本書の中心の問いを裏から支えている。
16. 五つの行為器官
発声の器官、手、足、排泄の器官、生殖の器官、
これが五つの行為器官
発声の器官の守護神は火の神、手の守護神はインドラ、
足の守護神はヴィシュヌ、排泄の器官の守護神は死の神、
生殖の器官の守護神はプラジャーパティ、
これが行為器官の守護神たち
発声の器官の対象は語ること、
手の対象は物を取ること、
足の対象は歩むこと、
排泄の器官の対象は排泄、
生殖の器官の対象は楽しみ
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
वाक्पाणिपादपायूपस्थानीति पंच कर्मेंद्रियाणि ॥
वाचो देवता वह्निः ।
हस्तयोरिंद्रः ।
पादयोर्विष्णुः ।
पायोर्मृत्युः ।
उपस्थस्य प्रजापतिः इति कर्मेंद्रियदेवताः ॥
वाचो विषयः भाषणम् ।
पाण्योर्विषयः वस्तुग्रहणम् ।
पादयोर्विषयः गमनम् ।
पायोर्विषयः मलत्यागः ।
उपस्थस्य विषयः आनंद इति ॥
vākpāṇipādapāyūpasthānīti paṃca karmeṃdriyāṇi ॥
vāco devatā vahniḥ ।
hastayoriṃdraḥ ।
pādayorviṣṇuḥ ।
pāyormṛtyuḥ ।
upasthasya prajāpatiḥ iti karmeṃdriyadevatāḥ ॥
vāco viṣayaḥ bhāṣaṇam ।
pāṇyorviṣayaḥ vastugrahaṇam ।
pādayorviṣayaḥ gamanam ।
pāyorviṣayaḥ malatyāgaḥ ।
upasthasya viṣayaḥ ānaṃda iti ॥
解説
知覚器官に続いて、五つの行為器官(カルメーンドリヤ)が挙げられる。
語る・取る・歩む・排泄する・生殖するという五つの働きがそれぞれに割り当てられ、知覚器官と同じく、一つひとつに守護神が配される。知覚器官が世界を受け取る窓だとすれば、行為器官は世界へ働きかける出口にあたる。
受け取る側と働きかける側を合わせた十の器官が、微細な身体の手足を成す。そのどちらの側も、個体の力だけで動くのではなく、宇宙の側の力に支えられて働く、という対応関係がここでも保たれている。
数え上げられたものは、それを数え上げているものではない。十の器官の目録を丁寧に作ることは、そのまま、道具と、道具を用いる者とを混同しないための準備になっている。
17. 原因の身体
原因の身体とは何か
言葉で言い表せず、始まりもない無明そのものであり、
先の二つの身体を生み出すおおもととなる、
自らの本性についての無知、
それが原因の身体である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
कारणशरीरं किम् ।
अनिर्वाच्यानाद्यविद्यारूपं शरीरद्वयस्य कारणभूतं सत् स्वस्वरूपाज्ञानं यदस्ति तत् कारणशरीरम् ।
kāraṇaśarīraṃ kim ।
anirvācyānādyavidyārūpaṃ śarīradvayasya kāraṇabhūtaṃ sat svasvarūpājñānaṃ yadasti tat kāraṇaśarīram ।
解説
三つめは、二つの身体のおおもととなる原因の身体(カーラナ・シャリーラ)である。
それは言葉で言い表すことができず、いつ始まったとも言えない「無明(アヴィディヤー)」そのものとされる。自らの本性を知らないというこの無知が、粗大・微細の二つの身体を生み出す根にあたる。
「言葉で言い表せない」とは、有るとも無いとも言い切れない、という意味である。知が訪れれば消えるのだから固い実在ではなく、二つの身体を現に生み出して働いている以上、まったくの無でもない。「始まりもない」も同じく、無明がいつ生じたかという問いには答えが立たない、という指摘である。
本性を知らないというだけのことが、身体と呼べるほどの厚みを持って自己を覆い、残る二つの身体をそこから立ち上げる。だからこそ、この無知が知によって晴れることが、そのまま三つの身体すべてからの解放につながる。
深い眠りのとき、何も知らずにただ在るように、はっきりした形を持たないまま、すべての奥に横たわっている。