第四章 五つの鞘と真我の本性 — タットヴァ・ボーダ
詩節 22–29 / 目次へ
22. 五つの鞘
五つの<ruby>鞘<rt>さや</rt></ruby>とは何か
食物の鞘、生気の鞘、心の鞘、
知性の鞘、歓喜の鞘である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
पञ्च कोशाः के ।
अन्नमयः प्राणमयो मनोमयो विज्ञानमय आनन्दमयश्चेति ।
pañca kośāḥ ke ।
annamayaḥ prāṇamayo manomayo vijñānamaya ānandamayaśceti ।
解説
身体と状態に続いて、自己を包む「五つの鞘(パンチャ・コーシャ)」が示される。
食物の鞘、生気の鞘、心の鞘、知性の鞘、歓喜の鞘の五つである。鞘とは、刀を包む鞘のように、内なる真我を幾重にも覆っているもののたとえである。
外側の粗いものから内側の微細なものへと、層をなして重なっている。自己を覆いの層の重なりとして調べるこの方法は、タイッティリーヤ・ウパニシャッドの古い教えに遡る。
注釈は五つの鞘を三つの身体に重ねている。食物の鞘は粗大な身体に、生気・心・知性の三つの鞘は微細な身体に、歓喜の鞘は原因の身体にあたる。同じ「私」の覆いを、三枚に分けるか五枚に分けるかの違いであり、分析が細かくなるほど、覆いと中身の取り違えは見つけやすくなる。
23. 食物の鞘
食物の<ruby>鞘<rt>さや</rt></ruby>とは何か
食物の精から生じ、食物の精によって育ち、
やがて食物そのものである大地へと
溶け帰っていくもの、それが食物の鞘である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
अन्नमयः कः ।
अन्नरसेनैव भूत्वान्नरसेनैवाभिवृद्धिं सम्प्राप्यान्नरूपपृथिव्यां यद्विलीयते सोऽन्नमयः कोशः ।
annamayaḥ kaḥ ।
annarasenaiva bhūtvānnarasenaivābhivṛddhiṃ samprāpyānnarūpapṛthivyāṃ yadvilīyate so'nnamayaḥ kośaḥ ।
解説
五つの鞘の最も外側、食物の鞘( アンナマヤ・コーシャ )が定義される。アンナ=食物、マヤ=〜から成る、コーシャ=鞘の意。
それは食べ物の精から生じ、食べ物によって育ち、やがて食物そのものである大地へ帰っていく、目に見える肉体を指す。
定義は、この層を一つの循環として描いている。大地に実ったものが身体となり、身体はやがて大地に帰る。食物の流れが、しばらくのあいだ人のかたちを取っている、という見方である。
食べ物に始まり食べ物に終わるこの層は、生まれては滅びる。それを「私」と見るかぎり、生死を自分のことと思い込む取り違えから離れられない。
24. 生気の鞘
生気の<ruby>鞘<rt>さや</rt></ruby>とは何か
生命の気をはじめとする五つの気と、
言葉などの五つの行為器官、
これが生気の鞘である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
प्राणमयः कः ।
प्राणादिपञ्चवायवो वागादीन्द्रियपञ्चकं प्राणमयः कोशः ।
prāṇamayaḥ kaḥ ।
prāṇādipañcavāyavo vāgādīndriyapañcakaṃ prāṇamayaḥ kośaḥ ।
解説
二つめは、生気の鞘( プラーナマヤ・コーシャ )である。プラーナ=生命の気。
それは生命の気をはじめとする五つの気と、言葉や手足など外へ働きかける五つの器官とを合わせたものを指す。
肉体を内側から動かし、息づかせている層であり、食物の鞘よりも微細だが、それ自体は意識ではなく、観察される側にとどまる。
行為器官が、心ではなくこの鞘に組み入れられているのは、語る・取る・歩むといった働きが、気の力に乗ってはじめて動くからである。眠って思考が止んでいるあいだも、息は続き、消化は進む。この層は、心の指図を待たずに身体を生かし続けている。
25. 心の鞘
心の<ruby>鞘<rt>さや</rt></ruby>とは何か
心と、五つの知覚器官とが合わさったもの、
それが心の鞘である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
मनोमयः कः ।
मनश्च ज्ञानेन्द्रियपञ्चकं च मिलित्वा मनोमयः कोशः ।
manomayaḥ kaḥ ।
manaśca jñānendriyapañcakaṃ ca militvā manomayaḥ kośaḥ ।
解説
三つめは、心の鞘( マノーマヤ・コーシャ )である。マノ=心・思考器官。
それは、思いをめぐらし迷う心と、五つの知覚器官とが合わさったものを指す。外から受け取った印象が、ここで「あれか、これか」と揺れ動く。
五つの知覚器官が再び数え入れられるのは、耳や目が捉えたものは、心と結びついてはじめて「聞こえた」「見えた」という経験になるからである。注釈はこの層を、好き嫌いや苦楽の揺れが住まう場所とする。日々の感情の波は、おおむねこの鞘の出来事である。
感じたものを引き受けて波立つこの層も、その波立ちを眺めているものではない。
26. 知性の鞘
知性の<ruby>鞘<rt>さや</rt></ruby>とは何か
知性と、五つの知覚器官とが合わさったもの、
それが知性の鞘である
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
विज्ञानमयः कः ।
बुद्धिर्ज्ञानेन्द्रियपञ्चकं च मिलित्वा विज्ञानमयः कोशः ।
vijñānamayaḥ kaḥ ।
buddhirjñānendriyapañcakaṃ ca militvā vijñānamayaḥ kośaḥ ।
解説
四つめは、知性の鞘( ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ )である。ヴィジュニャーナ=識別する知性。
それは、判断し決める知性と、五つの知覚器官とが合わさったものを指す。前の心の鞘が「あれか、これか」と揺れるのに対し、こちらは「これだ」と決める働きが中心となる。
迷う心と決める知性は、同じ内なる器官の別の面であり、ともに観察される側に置かれる。
注釈はこの層を、「私が行う」「私が味わう」という自負の座とし、人が最も「私」と取り違えやすいのはこの鞘だと指摘する。決めている働きがあるとき、決めている「私」がいるように思える。その確信こそが、ここで観察される側に置き直される。
27. 歓喜の鞘
歓喜の<ruby>鞘<rt>さや</rt></ruby>とは何か
好ましいものに触れたときの
喜びや楽しみといった心の揺れを伴う、
自らの本性についての無知、
それが歓喜の鞘である
そして、この五つの鞘は、
「私の身体」「私の生気」「私の心」
「私の知性」「私の無知」というふうに、
すべて「私のもの」として知られている
耳輪や腕輪や家が
「私のもの」として知られながら、
私自身とは別であるように、
「私のもの」として知られるものは、
真我ではない
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
आनन्दमयः कः ।
प्रियमोदादिवृत्तिमत् स्वस्वरूपाज्ञानं यदस्ति तदानन्दमयः कोशः ।
एतत् कोशपञ्चकं च मदीयं शरीरं मदीयाः प्राणा मदीयं मनो मदीया बुद्धिर्मदीयमज्ञानमिति मदीयत्वेनैव ज्ञायते तद्यथा मदीयत्वेन ज्ञातं कुण्डलकटकगृहादिकं स्वस्माद्भिन्नं तथा मदीयत्वेन ज्ञातमात्मा न भवति ।
ānandamayaḥ kaḥ ।
priyamodādivṛttimat svasvarūpājñānaṃ yadasti tadānandamayaḥ kośaḥ ।
etat kośapañcakaṃ ca madīyaṃ śarīraṃ madīyāḥ prāṇā madīyaṃ mano madīyā buddhirmadīyamajñānamiti madīyatvenaiva jñāyate tadyathā madīyatvena jñātaṃ kuṇḍalakaṭakagṛhādikaṃ svasmādbhinnaṃ tathā madīyatvena jñātamātmā na bhavati ।
解説
五つめの、最も内側の歓喜の鞘( アーナンダマヤ・コーシャ )が定義され、続いて五つの鞘すべてに共通する見分けが示される。アーナンダ=歓喜・至福。
歓喜の鞘とは、好ましいものに触れたときの喜びや楽しみといった心の揺れを伴う、自らの本性についての無知を指す。深い安らぎに最も近い層だが、それでもまだ無知の一種であり、真我そのものではない。
そのうえで本書は、五つの鞘がいずれも「私の身体」「私の心」というふうに、「私のもの」として知られていることを突く。耳輪や腕輪や家が「私のもの」でありながら私自身ではないように、「私のもの」として眺められるものは、眺めている真我そのものではない。これが、鞘を一つずつ剝がしてきた問答の要にあたる。
「私のもの」という言い方そのものが、持ち主と持ち物の隔たりを告げている。この一句の見分けは、家や装身具といった外のものから、身体、息、心、知性、そして無知そのものまで、同じ一本の線で貫かれる。何かを捨てたり退けたりするのではなく、もともと「私」ではなかったと見て取るだけでよい、という点に、この方法の静かさがある。
28. 五つの鞘を超える真我
それでは、真我とは何か
存在・意識・至福を本性とするものである
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
तर्ह्यात्मा कः ।
सच्चिदानन्दस्वरूपः ।
tarhyātmā kaḥ ।
saccidānandasvarūpaḥ ।
解説
鞘をすべて「私のもの」として外したあと、あらためて問いが立て直される。
では、そうして残る真我とは何か。答えは、存在・意識・至福を本性とするもの、と告げられる。
覆いを剝がした先に空白があるのではなく、覆われていた本性(スヴァルーパ)そのものが現れる。その本性を三つの面から言い表したのが、存在・意識・至福である。
三つの身体のいずれでもなく、五つの鞘のいずれでもない、と重ねられてきた否定の道は、ここで肯定の言葉に転じる。否定が削ぎ落としの作業だったのに対し、削ぎ落とした果てに残るものは、欠けたものとしてではなく、充ちた本性として告げられる。
29. 存在・意識・至福
存在とは何か
過去・現在・未来の
三つの時にわたって在り続けるもの
それが存在である
意識とは何か
ほかのいかなる手立てにも頼らず、
おのずから輝き、
ほかのものごとを照らし出すもの、
それが意識である
至福とは何か
幸福そのものを本性とするものである
こうして、存在・意識・至福を本性とする
自らの真我を、よく知るべきである
原文(デーヴァナーガリー・IAST)
सत् किम् ।
कालत्रयेऽपि यत् तिष्ठति तत् सत् ।
चित् किम् ।
साधनान्तरनैरपेक्ष्येण स्वयं प्रकाशमानतयेतरपदार्थावभासकं यत् तच्चित् ।
आनन्दः कः ।
सुखस्वरूपः ।
एवं सच्चिदानन्दस्वरूपं स्वात्मानं विजानीयात् ।
sat kim ।
kālatraye'pi yat tiṣṭhati tat sat ।
cit kim ।
sādhanāntaranairapekṣyeṇa svayaṃ prakāśamānatayetarapadārthāvabhāsakaṃ yat taccit ।
ānandaḥ kaḥ ।
sukhasvarūpaḥ ।
evaṃ saccidānandasvarūpaṃ svātmānaṃ vijānīyāt ।
解説
存在・意識・至福のそれぞれが、あらためて一つずつ定義される。
存在とは、過去・現在・未来のどの時にも変わらず在り続けること。意識とは、灯りや道具のような外の助けを借りず、おのずから輝きながら、ほかのすべてのものごとを照らし出すこと。至福とは、幸福そのものであることを指す。
三つは別々の性質ではなく、同じ一つの本性を三つの面から言い表したものである。在り続けるものこそが照らすものであり、照らすものこそが幸福そのものである。
ブラフマンを「実在であり、知であり、無限である」と定義する句が、ウパニシャッドに古くから伝わっている。存在・意識・至福の三つ組はその系譜に連なる定式であり、本書はそれを、まずほかならぬ「私」自身の本性として差し出す。問答はここで、その本性を自分自身のこととして知るよう告げて、身体と鞘の検討を締めくくる。