付録 思惟 — アディヤートマ・ヨーガ
第5章 / 目次へ
マナナ(思惟)
すでに述べたように、自己の智に至る直接の手段は、シャンカラの『ブリハッド・アーラニヤカ』注解二・四・五において、次のように説かれている。「それゆえ、親愛なるマイトレーイーよ、自己は見られるべきであり、聞かれるべきであり、思惟されるべきであり、そして瞑想されるべきである。まず師と聖典から聴聞し、次いで理由づけを通じて思惟し、その後、揺るぎなく瞑想すべきである」。ここに三つの手段の簡潔なまとめがある。シュラヴァナとニディディヤーサナについてはすでに論じた。ここではその中間にある手段、マナナについて論じる。
マナナは理由づけを通じて行われる。しかしそれは、単なる西洋哲学的な論理でもなければ、東洋の論理学者(タールキカ)による推論でもない。シャンカラのバーシュヤには、次の三種類の論理が説かれている。
一、クタルカ(不毛な論理)。これは日常の経験と矛盾する論理である。シャンカラは『ブラフマ・スートラ』注解二・二・一〇において、次の例を挙げている。ドゥンダバ(毒を持たない水蛇)と蛇(毒を持つコブラ)は外見が似ているが、「ドゥンダバは蛇に似ている」という理由だけで、ドゥンダバが毒を持つことにはならないし、その逆もまた同様である。同じように、AはBに等しく、BはCに等しい、ゆえにAはCに等しい、という代数的な推論も、事実に基づかない限りはクタルカにすぎない。
二、プラマーナ・タルカ(知覚に基づく推論)。たとえば山に立ち上る煙を見て、そこに火があると推論する場合である。この種の推論は日常生活においてある程度まで有用である。それは以前の経験(煙は火から生じるという経験)から導かれる。インドの論理体系(プラーチーナ・ニヤーヤ、ナヴィーナ・ニヤーヤ)は、こうした規則や公理の上に築かれている。しかし基礎となる知覚そのものが誤りであると判明すれば、その上に築かれたすべての推論は無効となる。たとえば、それが実は煙ではなく霧であったと判明する場合である。
シャンカラは論理一般が持つ三つの欠陥を、『ブラフマ・スートラ』注解二・一・一一において次のように指摘している。一、いかなる論理も最終的な結論に到達することはない(後の論理学者は常に先の論理学者を論駁する)。二、論理学者たちの間で互いに矛盾する可能性が常にある。三、いかなる論理学者の主張も、それ自体のうちに自己矛盾を含む可能性がある。
三、シュラウタ・タルカ(シュルティの言葉に基づく理由づけ)。これがマナナにおいて用いられるべき論理である。プラマーナ・タルカは、シュルティと矛盾しない限りにおいて、補助的にのみ用いてよい。シャンカラはこの点について次のように警告している。「聴聞に加えて『思惟』が説かれることから、論理もまた重んじられるべきだという議論もある。しかしこのような口実によっては、空虚な論理にここで場を与えることはできない。なぜなら、ここで補助的な手段として直証に資するものとして用いられるのは、ウパニシャッドに合致する論理のみだからである」(『ブラフマ・スートラ』注解二・一・六)。
シュラウタ・タルカの意義は次のとおりである。第一に、それは普遍的に承認された、自己についての直観的な体験に依拠する。第二に、それは二つの部分的な直観を結び合わせ、確固たる直観の基盤の上に結論を導く。第三に、それは二元性の領域、すなわち感覚的な知覚、心的な概念、知的な推論、また時間・空間・因果性という構築物のいずれをも超えており、反論や矛盾の入り込む余地がまったくない。
シャンカラは『ブラフマ・スートラ』注解二・一・六において、シュラウタ・タルカの三つの型を例示している。(一)「夢の状態と目覚めた状態は互いに矛盾するがゆえに、自己はそのいずれとも同一視されない」。(二)「個の霊魂は深い眠りの状態において世界から離れ、存在そのものである自己と一つになるがゆえに、それは超越的な自己と同一でなければならない」。(三)「創造はブラフマンから生じたのであり、原因と結果は非異なりであるという法則からすれば、創造はブラフマンと非異ならなければならない」。
第一の理由づけ(一)を詳しく見よう。目覚めた状態と夢の状態は互いを打ち消し合う。その基体である自己は、いずれの状態にも限定されない。目覚めた状態には、神的な層・物質的な層・肉体的な層(「アディヤートマ」の二、三頁を参照)に加えて、時間・空間・因果性の観念、および探究する者自身の不動性が含まれている。
夢の状態についても同様に考察される。両方の状態についての識別を通じて、人は自我との同一視を失い、自己の真実の本性のうちに立つ。このことは『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』において、ヤージュニャヴァルキヤが王ジャナカに説く教え、すなわち自己は汚されることなく、自ら輝き、不二であるという教えに確かめられる。目覚めた状態と夢の状態という二つの部分的な直観を結び合わせることによって、三つの結論が導かれ、その結果、求道者は不二なるブラフマンとしての本質的な本性のうちに確立される。このシュラウタ・タルカは『カトーパニシャッド』三・一・四においても用いられている。
第二の理由づけ(二)に移ろう。目覚めた状態と深い眠りの状態という二つの部分的な直観を結び合わせることによって、個の霊魂の本性は現世的な性質から常に自由であるという結論が導かれる。人は一般に「私は快を享受している」「私は苦を被っている」と誤って考える。これは身体から自我に至る非自己との誤った同一視である。これに対し、快や苦を、それを照らす目撃者である自己によって照らし出されたものとして認識することは、鋭い識別を要し、一般の求道者にとっては困難である。
たとえいかに優れた知性を持つ者であっても、常人はこれを単なる推論として扱いがちであり、自我との同一視を絶つための内省の力を欠く。しかし力量ある学徒は、これを正しく把握する。もし困難が生じるならば、深い眠りにおける直観が導きとなる。そこでは現世的な苦しみからもあらゆる制約からも自由である。目覚めた状態における、苦に汚されない目撃者という直観と、深い眠りにおける制約からの自由という直観、この二つの部分的な直観を結び合わせることによって、自己の本性は現世的な苦しみから常に自由であるという結論が導かれる。これが第二の理由づけの意義である。
第三の理由づけ(三)に移ろう。「創造はブラフマンから生じたのであり……創造はブラフマンと非異ならなければならない」。この点をめぐって、創造あるいは因果性についての諸説を広く見ておく必要がある。
現代科学は、原子・陽子・電子・中性子などを基本単位とするが、これらの起源については何ら答えを持たず、時間や空間の起源をめぐる問いは「形而上学」として退けられる。カントは、時間と空間を心の観念とみなし、心は観念の統一・質・量・因果性の働きを通じて機能するとしつつ、「物自体」は知りえないとした。アインシュタインは相対性理論によって、相対的な現象の彼方にある絶対の「本体」を推測したが、明確な結論には至らなかった。
東洋の諸説としては、一、カピラのサーンキヤにおけるプラダーナ(プラクリティ、アヴィヤクタ、未顕現の原因)。二、ヴァイシェーシカ派の原子論における原子を原因とする説。三、ヴァイシェーシカ派・ニヤーヤ派・パタンジャラ派が、原子あるいはプラクリティから創造するために別個の主(イーシュヴァラ)を要すると説く立場。四、有神論的な宗教における、魂と宇宙から独立して創造・維持・破壊を行う神という考え。五、仏教の見解、すなわち宇宙は夢のような単なる心の創造にすぎず、実在するものは何もなく、宇宙・魂・神はいずれも消えゆく(つかの間の)本性を持つという説で、これはニヒリズムと呼ばれる。
ヴェーダーンタの創造観はこうである。無限の時間・空間・因果性・多様性という観念は、「創造」という語そのもののうちに含まれている。シャンカラは『ブラフマ・スートラ』注解一・一・二において次のように述べている。「名称と形相によって顕現し、多様な行為主体と経験主体を伴い、行為とその結果の基盤を提供し、空間・時間・因果性が整然と規定されており、その創造の真の本性についてのあらゆる思考を超えている、この宇宙において」。
ヴェーダーンタは、生についての包括的な見方をもって創造にアプローチする。創造の全体は、目覚めた状態のうちに限られており、この状態は自己から生じ、自己によって支えられ、自己のうちへと消え去る。ヴェーダーンタの用語における「原因」とは、通常の時間的な因果関係を意味するのではなく、実在(原因)と虚偽の現れ(結果)を意味する。結果は原因を離れて独立した存在を持たない。木の椅子は、木を離れては存在を持たない、というのと同じである。
シャンカラは『ブラフマ・スートラ』注解二・一・一四において次のように述べている。「壺や瓶の内にある空間が宇宙の空間と異ならぬように、また蜃気楼の水が(砂の)荒野と異ならぬように、それらは時に現れ時に消え去り、その本性を定めることができないのと同様に、経験というこの多様な現象世界、経験される事物は、ブラフマンを離れて存在するものではないと理解すべきである」。これによって、ブラフマンとしての世界は実在であるが、世界それ自体としては虚偽であることが確かめられる。第三の理由づけ、すなわち創造がブラフマンと非異なるという結論も、これによって裏づけられる。シャンカラは『ブリハッド・アーラニヤカ』注解において次のように述べている。「生というものにおいては、いかなる事物も、それ以外の何かを離れては認識されえず、その何かこそが、その事物の本質である」。
この生についての包括的な見方に導かれたシュラウタ・タルカを通じて、宇宙の原因についての探究は、宇宙の現れそのものを自ずと否定し、それと同時に、ブラフマンの不二なる本性を自らの自己として直観させる。これが、この種のシュラウタ・タルカがもたらす益である。
本書は Devarao Kulkarni 著『Adhyatma Yoga』(Adhyatma Prakasha Karyalaya, Bangalore Branch, 1980年刊)を底本としています。底本はArchive.orgにてCC BY-NC 4.0(表示 - 非営利)で公開されています。英語版から星空久音が日本語に翻訳しました。本和訳も同じく CC BY-NC 4.0 で提供します。商用利用はできません。