非二元堂

付録 聴聞 — アディヤートマ・ヨーガ

第4章 / 目次へ

シャンカラのバーシュヤにしたがえば、自己の智に至る直接の手段(サークシャート・サーダナ)は三つある。シュラヴァナ(聴聞)、マナナ(思惟)、ニディディヤーサナ(観想)である。このうちニディディヤーサナについては、すでに「アディヤートマ・ヨーガ」の章で論じた。ここではまず「シュラヴァナ(聴聞)」について論じる。

シュラヴァナ(聴聞)

求道者は、ウパニシャッドの言葉にしたがい、力量あるグルに聴聞しなければならない。その際、自らの直観的な体験に照らして確かめながら聴聞すべきである。グル自身もまた、自己の真実の本性のうちに堅固に確立している者でなければならない。このことは『カトーパニシャッド』注解一・二・八と一・二・九に説かれている。シャンカラは、聴聞の結果として得られるものを、『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』のバーシュヤにおいて、第八のマントラにもとづき、次の四点にまとめている。一、自己が現世的な生活から常に自由であるという真実の本性を認識すること。二、自己の不二なる本性について、いかなる疑いも残らないこと。三、知られるべき何ものも、もはや残されていないこと。四、自己を知らない、あるいは認識していないという問いが、もはや成り立たないこと。

ひとつの例

生と死、この世に生まれる以前と死んだ後の世界について、人は一般に信じている。しかしヴェーダーンタの教えによれば、求道者はまず、自我すなわち「私という感覚」を超えた存在として、自らの本性を認識しなければならない(これについては「アディヤートマ・ヨーガ」の項ですでに論じた)。聴聞の過程において、求道者は自己のうちに立ち、自我との同一視をやめる。この二つは別々の働きではなく、同じひとつのことである。『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』のバーシュヤには、現象世界の四つの部分についての認識の結果が説かれている。ここで留意すべき点が二つある。一、無限の時間と空間という観念は、目覚めた状態そのもののうちに含まれている(状態そのものは時間や空間のうちにあるのではない)。二、目覚めた状態の現象の基体である自己は、時間と空間を超えている(自己が第一であり、状態が第二であると言うことは正しくない)。

三、自己は遍く行きわたるものであり、目覚めた状態の現象全体を貫いている。これは絶対の、不二なる本性であるが、無知のゆえに同じ自己が目覚めた世界として現れる。四、この認識の結果は、まさに聴聞のその瞬間に達成される。求道者は宇宙全体を自己のうちに、また自己を宇宙のうちに見て、自らが現世的な苦しみから常に自由であることを認識する。これがヴェーダーンタの教えのひとつの例である。

シュリー・シュリー・サッチダーナンデーンドラ・サラスヴァティー・スワーミジーは、時間・空間・因果性という概念が、まさにこの状態そのものの内にあることを、初めて宣言された。それ以前のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ論者たちの多くは、パンチャダシー一・三〜七、一・五三〜六一などを典拠に、自己は無限の時間の中で目覚め・夢・深い眠りという三つの状態を通じて存在を継続すると信じ、シュラヴァナ・マナナ・ニディディヤーサナの後、パタンジャラ・ヨーガによるトランスあるいはサマーディを経て初めて、不二なる自己を体験できると考えていた。あるいは、単なる識別によってはこの体験は得られないとも考えていた。

スワーミジーの訂正はこうである。自己は「体験される」ものではない。むしろ求道者は、自己が対象化されうるものではなく、また決して対象化されうるものにはなり得ないということを、識別(ヴィヴェーカ)によってのみ直観しなければならない。この識別は、しばしば単なる知的な演習と誤解されるが、実際には、自我すなわち「私という感覚」から自己の真実の本性を分かつことを意味する。したがって自己は、いかなる特定の状態や条件においても得られるものではない。このことは『ブラフマ・スートラ』注解二・一・一四にも「『それはお前である』と説かれる自己とブラフマンとの同一性は、いかなる特定の状態にも依存しない」と説かれている。

力量ある知性を持つ求道者ならば、聴聞のみによって人生の最終の目的に到達することができる。このことはシャンカラも『ブラフマ・スートラ』注解において次のように述べている。「これに対し、無知や疑い、混乱といった障害を、知られるべき対象について持たない鋭敏な知性の者は、最初の一句からでも『それはお前である』の意味を実現することができる。したがって彼らにとって、繰り返しはまったく不要である」。

自らの真実の本性を自己として認識するとき、人は自らの本性についての確固たる確信を得る。この確固たる確信は「アートマ・プラティヤヤ」と呼ばれる。この「アートマ・プラティヤヤ」を自らの心のうちに生じさせる唯一の手段は聴聞であり、その結果は「アートマ・プラティヤヤ」の到来にほかならない。このことはシャンカラが次の諸箇所のバーシュヤにおいて説いている。『ギーター』十三・三四、『マーンドゥーキヤ』第七マントラ、『ムンダカ』二・二・九、『マーンドゥーキヤ・カーリカー』三・三二である。これらすべての箇所において、聴聞の結果は求道者の心に「アートマ・プラティヤヤ」を生じさせることとして説かれている。この「アートマ・プラティヤヤ」を通じてのみ、人は自らの真実の本性である自己のうちに立つことができ、それ以外の方法はない。ただし留意すべきは、この「アートマ・プラティヤヤ」によって自己が対象化されるのではなく、「アートマ・プラティヤヤ」の到来そのものが、自己の光のうちに顕わになるということである。

それゆえ、自己を知ることは自己であることであり、自己であることは非自己との同一視を絶つことである。こうして求道者は、二元的な世界の現れを虚偽であるとし、不二なるブラフマンとしての真実の本性のうちに留まる。その後、彼が時間と空間の中で何かを望むということはもはやなく、さらにこの正しい見方が何かによって否定される可能性もまったくない。この事実は、シャンカラが『ブリハッド・アーラニヤカ』注解二・三・六の終わりで強調している。これらが「シュラヴァナ」の本質的な特徴である。

本書は Devarao Kulkarni 著『Adhyatma Yoga』(Adhyatma Prakasha Karyalaya, Bangalore Branch, 1980年刊)を底本としています。底本はArchive.orgにてCC BY-NC 4.0(表示 - 非営利)で公開されています。英語版から星空久音が日本語に翻訳しました。本和訳も同じく CC BY-NC 4.0 で提供します。商用利用はできません。