アディヤートマ・ヨーガ — アディヤートマ・ヨーガ
第3章 / 目次へ
1) すでに「アディヤートマ」という語については論じた。ここでは「アディヤートマ・ヨーガ」の意味を知ろう。通常「ヨーガ」という語は「パタンジャリ・ヨーガ」や「ラージャ・ヨーガ」などを指す。しかしプラスターナトラヤ・バーシュヤによれば、この「ヨーガ」はまったく異なる。ヴェーダーンタ・シャーストラにおいて、シャンカラはパタンジャリ・ヨーガの八支のうち最初の五支、すなわちヤマ(感覚器官の制御)、ニヤマ(行為器官の制御)、アーサナ(長時間快適に座る方法)、プラーナーヤーマ(心の静けさを得るための呼吸の調整)、プラティヤーハーラ(外的な対象の享受を求める心の傾きから心を引き離すこと)を受け入れている。パタンジャリ・ヨーガのこの五支は、ヴェーダーンタの学徒にとっても、とりわけ「アディヤートマ・ヨーガ」の学徒にとっても、欠くことができない。これらの資質を養うためには、常人にとってカルマ・ヨーガとウパーサナーが助けとなる。このことは『バガヴァッド・ギーター』でも裏づけられており、カルマ・ヨーガは「ディヤーナ・ヨーガ」へと導き、ディヤーナ・ヨーガはバクティ・ヨーガを通じて「智」へと導く、と説かれている。ここでいうディヤーナ・ヨーガそのものが、アディヤートマ・ヨーガである。
2) パタンジャリによれば、「ヨーガ」には八つの支あるいは段階がある。最初の五支はすでに説明した。残るは「ダーラナー」「ディヤーナ」「サマーディ」である。しかしこの三つは、ヴェーダーンタ・シャーストラでは受け入れられていない。プラスターナトラヤ・バーシュヤには「ダーラナー」「ディヤーナ」という語も見られる。たとえば『バガヴァッド・ギーター』第九章では「第八章において、ダーラナーすなわち集中のヨーガが説かれた……」と述べられている。また『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』一・一一・四では、集中や瞑想などの実践とともに、この文脈で用いられる「ディヤーナ」「ダーラナー」という語は、パタンジャリ・ヨーガと同じ意味を持つ。
これらはただ、聖典に説かれる「オームカーラ」や、主のいずれかの姿への「集中した瞑想」を指すにすぎない。シャンカラは『ブラフマ・スートラ』注解において、パタンジャリ・ヨーガが二元論の学派であるとの見解を示している。というのも、パタンジャラ・ヨーガの徒は自己の多数性を主張し、宇宙の根本物質すなわちプラクリティの実在と、それに加えて主の存在を認めるからである。しかしヴェーダーンタでは、不二なるブラフマンのみが、無知ゆえにこれらすべてとして現れると確定されている。このことは『ブラフマ・スートラ』注解二・一・四にも「しかしサーンキヤおよびヨーガの徒は二元論者であり、自己の一性を見ない」と説かれている。したがって、ヴェーダーンタで用いられる「ヨーガ」や「サーンキヤ」といった語(たとえば『バガヴァッド・ギーター』における)は、パタンジャリ・ヨーガやカピラのサーンキヤとは無関係であり、普遍的な(直観的な)体験と生についての包括的な見方に依拠するヴェーダーンタの教えにしたがって、識別と集中の過程を指す。
3) 「アディヤートマ・ヨーガ」がパタンジャリ・ヨーガとはいかなる意味でも無関係であることを、はっきりさせておかねばならない。以下では、ウパニシャッドにしたがい、アディヤートマ・ヨーガの意味を論じる。「アディヤートマ・ヨーガ」という語は『カトーパニシャッド』一・二・一二において、心を自己の上に集中させることの発展、すなわち瞑想として説かれている。シャンカラはそのバーシュヤにおいて、「心を外的な対象から引き離した上で自己に集中させることが、アディヤートマ・ヨーガである」と述べている。このヨーガの過程は『カトーパニシャッド』一・三・一三に描かれている。これは『ブラフマ・スートラ』注解一・四・一にも明確に説かれ、次のとおりである。「識別する者は、その心を認識する自己のうちへと融合させるべきである。認識する自己を、マハーン・アートマ(偉大なる霊)のうちへと融合させるべきである。偉大なる霊を、平安なる自己のうちへと融合させるべきである」(一・三・一三)。ここで含意されているのはこうである。「言語器官を心のうちへと融合させるべきである」とは、言語器官などの外的な働きをすべて手放し、心のみを通じて働き続けるべきことを意味する。そして心もまた対象を思考する傾きを持つがゆえに、彼は賛否について思考することの欠点を発見し、次いで、決定の能力を持ち「認識する自己」と呼ばれる知性のうちに、心を確固として保持すべきである。その知性を、彼はさらに、経験する者たる偉大なる霊、あるいは瞑想によって研ぎ澄まされた鋭敏な知性のうちへと退けるべきである。しかし偉大なる霊は、彼によって、平安なる自己、すなわち考察の対象である至高のプルシャのうちに、換言すれば最高の目的地のうちに、確立されねばならない。
このように、アディヤートマ・ヨーガは、行為する者の意志や願望に依存するという意味での「カルトゥ・タントラ」の性質を持つ他の瞑想とは異なり、「ヴァストゥ・タントラ」(心を対象に集中させて、それをあるがままの真の姿において認識すること、すなわち事実をあるがままに観察すること)である。
4) このアディヤートマ・ヨーガは「ニディディヤーサナ」とも呼ばれ、『ギーター』第六章ではこのニディディヤーサナが「ディヤーナ・ヨーガ」として説かれている。『バガヴァッド・ギーター』第六章全体は、その付随する諸要素とともに、このディヤーナ・ヨーガの過程を明らかにしている。同じ『バガヴァッド・ギーター』の次の箇所でも、このディヤーナ・ヨーガあるいはアディヤートマ・ヨーガが説かれている。十三・二四、十八・五二である。同じアディヤートマ・ヨーガは、ガウダパーダが『マーンドゥーキヤ・カーリカー』三・四一から三・四八において「マノニグラハ・ヨーガ」とも呼んでいる。これらすべての箇所において、アディヤートマ・ヨーガの実践、その付随する諸要素、実践中に生じる障害、そしてその障害の除去が説かれている。
5) このアディヤートマ・ヨーガ(ニディディヤーサナ、ディヤーナ・ヨーガ、あるいはマノニグラハ・ヨーガ)を実践するために、求道者はまず、グルと聖典によって説かれる識別の過程を聴聞することによって「アートマ・プラティヤヤ」(自己の真実の本性についての確固たる確信)を得なければならない。そして彼は、直観という確固たる基盤の上に、グルと聖典の教えにしたがって理由づけを行う、マナナすなわち思惟の方法を知らねばならない。その後、自己の真実の本性のうちに立ち、あらゆる二元的な現象のうちに自己が遍く行きわたっていることを認識するために、彼はこのニディディヤーサナすなわちアディヤートマ・ヨーガを実践しなければならない。
ニディディヤーサナの実際の過程
ニディディヤーサナの実際の過程は次のとおりである。
A)外部世界の総体的な体験の本質は、音・触・色(形)・味・香という五種の感覚にほかならない。この五つの感覚を除き、これを離れては、世界というものは存在しない。この外部世界の存在を証すのは、われわれの感覚器官のみである。感覚器官を通じて得られるこの五重の感覚を欠いては、世界の存在を証すいかなる根拠もない。したがって感覚器官は、外部世界の「自己」である。
ここで自己の重要な特徴は、一、内側に宿ること、二、対象を遍く行きわたること、三、独立していること、四、微細であることである。これら四つの重要な特徴については『カタ』一・三・一〇と『バガヴァッド・ギーター』三・四二を参照されたい。非自己の重要な特徴は、自己とはまったく異なる。たとえば、一、外側に現れること、二、自己によって遍く行きわたられること、三、自己に依存すること、四、粗大であることである。これらの基準にしたがって、外部世界から最も内なる自己に至るまでの事物の全範囲を考慮しつつ、自己の本性を確定すべきである。この過程における第一の段階は、感覚器官によって外部世界を止揚することである。すなわち、感覚器官の振動あるいは感覚を通じてのみ、人は外部世界を経験するに至るのであり、この感覚器官の感覚を離れては、外部世界というものはそれ自体として存在しないと認識することである。これが一旦確定されれば、彼はもはや外部世界に引き寄せられることも、外部世界の対象に引きつけられることもない。この確固たる確信の結果が、感覚器官による外部世界の止揚と呼ばれる。
B)これに続いて、感覚器官の源泉を探究すべきである。そして彼は、心が感覚器官の自己であるという結論に至る。ここでもまた、内側に宿ること、外的な事物を遍く行きわたることなどが、四つの共通する特徴である。上述のすべての方法は、心と、感覚器官あるいは外部の事物との関係にも適用されるべきである。こうしてここで求道者は、心こそが、無限の時間・空間・因果性などの観念を伴う感覚器官と外部世界として現れているのだという確固たる確信を得る。これが、心による感覚器官の止揚と呼ばれる。ここで求道者は、心という形をとってのみ留まる。彼はいわば心そのものの体現である。心を離れては、世界や感覚器官に独立した存在はない。
C)次いで彼は、内へ向かって知性へと進まねばならない。ここで、心の動揺を決定し対象化する能力は、「知性」あるいは「ブッディ」と呼ばれる。この知性は心の自己である。鋭敏な観察によって、先の推論の方法にしたがい、知性によって心を止揚すべきである。ここで求道者は知性として留まる。彼にとって、知性を離れて独立に存在する心や感覚器官、外部世界というものはない。
D)次いでこの求道者は、知性の材質、すなわち「私という感覚」あるいは「自我」を識別し、見きわめるべきである。この自我は「私の知性はしかじかのことを理解できる、あるいは理解できない」というふうに、知性を対象化する。したがってこの「私という感覚」は知性の内なる材質であり、また快あるいは苦の享受者でもある。すなわち、快と苦は内的な器官に属するものであるが、この「私という感覚」はそれらの快苦の感情と自己を同一視するのである。それゆえこれは「享受者」と呼ばれる。この「私という感覚」が個としての観点から説かれるとき、それは「ジーヴァ」と呼ばれるが、この「私という感覚」が全体としての観点、すなわちすべての生きものに共通する宇宙的な「私」、あるいは宇宙における最初の「私という感覚」の観点から説かれるとき、それは「ヒランヤガルバ」「マハーン・アートマ」と呼ばれる。これはヴェーダーンタに特有の表現、すなわち専門用語である。要するに、自我によって知性を止揚すべきである。これらすべての段階を通じて、上に述べたすべての特徴が観察されねばならない。したがって「私という感覚」は、この全現象の自己である。「私という感覚」があるところには、必ずそれに応じた世界という一切の随伴物とともにそれが現れる。
ここで想起し、直観的に理由づけることがきわめて重要である。すなわち、目覚めた状態の自我と夢の状態の自我は同一ではない。実際、両者の間にはいかなる関係もない。それぞれの自我は、それぞれ独自の世界を投影する。「私という感覚」がないところには、いかなる世界の痕跡もない。それゆえわれわれは、個としての側面とともに全体としての側面を捉えねばならず、これがヴェーダーンタに特有の方法である。これを確かめるために、われわれは普遍的な(直観的な)体験の承認という基盤の上に、生を包括的な見方をもって観察しなければならない。目覚めた状態の自我が現れるとき、それとともに目覚めた状態の世界全体が存在するものとして現れる。夢の状態についても同様である。そして深い眠りにおいて、これら二種の「私という感覚」が消え去るとき、いかなる世界あるいは二元性の痕跡も、まったく残らない。したがって、この「私という感覚」があらゆる現象の自己であることは明らかである。
E)最後に、求道者は自らの「私という感覚」すなわち自我を対象化し、自らの真実の本性、すなわち「私という感覚」の目撃者であるところの自己のうちに立たねばならない。「私という感覚」を対象化する唯一の方法は識別を通じてであり、深い集中とともに「私という感覚がある」と言うとき、彼は自動的に、自我すなわち「私という感覚」の目撃者である自己の真実の本性のうちに立つ。自己の真実の本性のうちに立つために努力はまったく必要ない。なぜならそれは、彼自身の存在の本性であり、彼は常にそれそのものだからである。自我などの非自己との誤った同一視のゆえに、人は「私はしかじかの者である」と誤って考える。ここに説かれるこの「アディヤートマ・ヨーガ」にしたがい、集中した心をもってこの識別の過程を採ることによって、人は自我その他すべてとの同一視をやめる。たとえば、「私という感覚」が目覚めた状態にも夢の状態にも(別々に)現れ、深い眠りにおいて完全に消え去ると識別するとき、そのとき彼は自らの「私という感覚」との同一視をやめている。しかしこの直観を表現しようとするとき、彼はただちに「私という感覚」の形をとり、この直観を表現するために「私という感覚」とその随伴の諸器官を用いる。そのとき彼は混乱し、「私は深い眠りにおける『私という感覚』の不在を、私の知性あるいは心を通じて知っている」と言ってしまう。
しかし事実はまったく異なる。それゆえ自己の真実の本性のうちに立つためには、識別の過程をおいて他に道はない。このことはシャンカラが『ブラフマ・スートラ』注解一・一・四でその注解に説くとおりである。この主題の冒頭で引いた一節の最後の句は、「しかし偉大なる霊は、彼によって、平安なる自己、すなわち考察の対象である至高のプルシャのうちに、換言すれば最高の目的地のうちに、確立されねばならない」というものであった。この句の意味は、以下で説明される。
F)この「アディヤートマ・ヨーガ」の実践を通じて、人は最終的に「私の真実の存在は『私という感覚』すなわち自我を超えている」と認識する。この真理を認識するとき、彼は自我の目撃者としての本性のうちに、自らへと留まる。それゆえ「自己を知ることは自己であることであり、自己であることは非自己との同一視を絶つことである」。アディヤートマ・ヨーガの求道者は、シュリー・ラマナ・マハルシのこの言葉を心に留めねばならない。ここで求道者は、集中した心をもって識別を伴いながら、いわば内へと歩みを進め、あらゆる二元性の際、生の核心そのものへと到達する。そして彼自身は、自我の目撃者、あるいは純粋なる自己として留まっている。
その後、彼は(先の諸段階においてそうしたように)自我から外部世界に至るあらゆる事物における、この目撃者の遍満する本性を観察しなければならない。したがって、自己の真実の本性を離れて、いわゆる非自己の独立した存在というものはない。そして時間や空間において自己とそれ以外を区別する可能性はまったくない。なぜなら、時間・空間・因果性という観念は、「私という感覚」の管轄下にのみあるからである。したがって非自己それ自体は、時間や空間のうちにはない。時間や空間などの観念そのものが、非自己のうちに含まれている。そして自己の真実の本性は、「私という感覚」を超えているがゆえに、時間と空間の管轄下にはない。それゆえ、自己が第一であり非自己が第二であると言うことは不可能である。厳密に言えば、非自己の現象全体は、あたかも水が波を貫き通すように、あるいは粘土が壺を貫き通すように、ただ自己によってのみ遍く行きわたられている。
したがって、真の自己を離れて、非自己というものはそれ自体として存在しない。人が自己の真実の本性を知らないとき、彼は自己をあたかも非自己であるかのように誤って考える。この真理は、次のシュルティの一節に確かめられる。「なぜなら、いわば二元性があるとき、そのとき人は何かを嗅ぎ……何かを思い、何かを知る。(しかし)ブラフマンを知る者にとってすべてが自己となるとき、そのとき何を、何によって見るべきであろうか……何を、何によって知るべきであろうか」。
このゆえにシャンカラは『ブラフマ・スートラ』注解において、ブラフマン(自己)と世界の間の因果性について、次のように宣言している。「壺や瓶の内にある空間が宇宙の空間と異ならぬように、また蜃気楼の水が(砂の)荒野と異ならぬように、それらは時に現れ時に消え去り、その本性を定めることができないのと同様に、経験というこの多様な現象世界、経験される事物は、ブラフマンを離れて存在するものではないと理解すべきである」。これによってわれわれは、ブラフマンすなわち自己が実在であり、世界は虚偽の現れであると結論できる。この過程によって、「私という感覚」を含む二元的な世界の全現象の虚偽性を認識するとき、人はおのずと不二なる(絶対の)自己のうちに自らを確立する。これがアディヤートマ・ヨーガすなわちニディディヤーサナの最終的な成果である。
誤解
求道者は次のような誤解を抱いてはならない。
一、このアディヤートマ・ヨーガの終わりに、人はサマーディ(ニルヴィカルパ・サマーディ、すなわちトランス)に入る。二、奇妙で異常な体験を得る、あるいは驚くべき音を聞き、魅惑的な幻視を見るなどする。三、シッディ(超能力)を獲得する、あるいは得る。これらはきわめて魅力的で誘惑的な力あるいは体験であるため、多くの人がこうした結果を期待あるいは予期するが、これらはいずれも、ここで扱うアディヤートマ・ヨーガとは何の関わりもない。なぜなら、新たに行われ達成されるものは永遠ではなく、時間に縛られたものであるからである。しかしここでいうアディヤートマ・ヨーガにおいては、人は時間と空間の観念を超えた自己としての真実の本性を認識すべきであり、この認識によって、二元性の全体、すなわち自我あるいは「私という感覚」を、虚偽であると否定しなければならない。求道者は、努力なくして自然に自己への気づきのうちに確立されるまで、このアディヤートマ・ヨーガを実践すべきである。これはヴェーダーンタにおいて「智における定立」(ジュニャーナ・ニシュター)と呼ばれ、この智における定立を得るために、このアディヤートマ・ヨーガが直接の手段となる。
このアディヤートマ・ヨーガの求道者は、『バガヴァッド・ギーター』十三・七から十一、および十八・五一から五四に説かれる謙虚さなどの外なる徳目を観じ、常に、自我とその目撃者である自己とを識別しようと努めなければならない。これは、カルトゥ・タントラのサーダナの範疇に属する「私は自己である」という絶え間ない瞑想あるいは感覚の過程ではない。むしろ、上に述べた識別を伴う集中した心をもって、生の事実を鋭く観察すべきである。
今日、霊的な分野の師やグルの多くは瞑想を強く推奨しており、彼らが説く瞑想の方法は、われわれの日々の生活においてある程度まで有用ではある。しかしこのアディヤートマ・ヨーガは、そうした瞑想とはまったく異なる。ここでは、このアディヤートマ・ヨーガの実践を通じて自己の不二なる本性を認識した後には、受益者・利益・利益の源泉あるいは手段という三つ組の問題はもはや生じない。上に引いた『ブリハッド・アーラニヤカ』二・四・一四の一節、すなわち「しかしブラフマンを知る者にとってすべてが自己となるとき、そのとき何を、何によって見るべきであろうか……」を参照されたい。このアディヤートマ・ヨーガについて聴聞した後、これを知性によって把握すべき主題として受け取る者もいる。こうした人々は自分は正しく理解したと考えるが、絶えず「次は何をすべきか」と問い続ける。この種の問いは、彼らがまだ自らの真実の本性を自己として直観するために必要な資格を得ていないことを示している。彼らはこれをすべて知的な演習あるいは論理の営みだと考える。なぜなら彼らは、これらすべての理論を知った後には、時間の中で具体的あるいは実際の成果を得るために、何らかの修練を実践しなければならないと理解しているからである。彼らは、われわれの日常生活に見られるように、理論と実践を自然に区別する。しかしわれわれは冒頭ですでに繰り返し述べた。新たに行われ達成されるものは永遠ではなく、必ず時間に縛られる、と。この人々はこのことを忘れており、これ自体が彼らにとっての資格の欠如となっている。時間と空間によって制限され、非自己であるものは、理論として知られた後に実践によって達成されうる。しかし自己の場合、それは自らの存在の核心そのものであり、その本性は直接かつ即座であるがゆえに、理論と実践といった区別の可能性はまったくない。自己それ自体が「実践中の実践」なのである。ここで必要とされる唯一の努力は、自我から身体に至るまでの非自己と自己を同一視する自然な傾きを、やめることだけである。この点についてシャンカラは『ギーター』注解十八・五〇において次のように述べている。「したがってわれわれは、無知によってブラフマンに誤って付託されたものを除去するのみでよい。ブラフマンはおのずから明らかであるがゆえに、ブラフマンについての知を得るためにこれ以上の努力をする必要はない」。
シャンカラのバーシュヤにおける重要語の意味
このアディヤートマ・ヨーガは、ここではシャンカラの『プラスターナトラヤ・バーシュヤ』にしたがって説かれている。この関連で、バーシュヤには「ヨーガ」「サマーディ」などの多くの語が用いられている。これらの語の意味は、他の人々によって一般に与えられている意味とバーシュヤにおいては異なっている。この目的のために、以下にこれらの語に与えられているいくつかの意味を示しておきたい。
一、『ギーター』二・四四において、「サマーディ」という語はシャンカラによって次のように解釈されている。「サマーディとは、ブッディすなわちアンタハカラナ(内的器官)であり、そこにはプルシャ、すなわち個の霊魂にとっての享受のあらゆる対象が集められている」。ここでシャンカラは、知性の確固たる性質を持つ確信がサマーディと呼ばれると言っている。すなわち、世俗的な享受へと向かうか解脱へと向かうかを決定できるのであり、そのいずれについても、知性の確固たる性質が主たる原因である。それゆえサマーディとはブッディを意味する。
二、『ギーター』二・五三において、「サマーディ」という語は自己を意味する。識別によって自己の真実の本性を認識するとき、心あるいは知性は完全に静まる。それゆえ自己はサマーディと呼ばれる。ディーとは自己を意味する。自己の真実の本性を認識すること以外に、心の平静はない。したがってこの章の第五四詩節において、「サマーディ・スタ」という語は、すでに自己としての真実の本性のうちに自然に確立している者を意味する。
三、『マーンドゥーキヤ・カーリカー』三・三七において、「サマーディ」という語はシャンカラによって二通りに解釈されている。第一に知性の観点からは、一点に集中した心によって自己の真実の本性についての確固たる確信が得られ、この自己への気づきがサマーディと呼ばれる。自己の観点からは、まさに自己のうちにおいて心は平静を得るのであり、それゆえ自己がサマーディと呼ばれる。「ヨーガ」という語は、シャンカラによって次のように解釈されている。一、『ギーター』二・五三では、「ヨーガ」は識別の結果として得られる自己の真実の本性についての気づきを意味する。二、『ギーター』二・三九では、「ヨーガ」という語は智(サーンキヤ)に至るための手段という意味で用いられている。すなわちカルマ・ヨーガの実践は、智に到達するための手段である。三、『バガヴァッド・ギーター』第四章の序で、「ヨーガ」という語の意味は次のように示されている。「自己の真実の本性のうちに自然に確立すること、そしてそれに伴う完全な放棄という結果、およびカルマ・ヨーガという手段によって到達されるもの、この種のヨーガが先の二つの章で説かれた」。ここでヨーガとは、自己の真実の本性のうちに自然に確立することを意味する。四、自己の真実の本性の認識を得るための直接の手段、すなわちシュラヴァナ(聴聞)、マナナ(思惟)、ニディディヤーサナ(アディヤートマ・ヨーガ)を実践すること。この種の実践はサーンキヤ、あるいはサーンキヤ・ヨーガと呼ばれ、これに先立ってカルマ・ヨーガを実践することはヨーガの道と呼ばれる。『バガヴァッド・ギーター』第五章では、この二つの道が説かれている。
五、すでに述べたように、アディヤートマ・ヨーガのさまざまな呼び名は、『バガヴァッド・ギーター』十三・二四と十八・五二では「ディヤーナ・ヨーガ」、『マーンドゥーキヤ・カーリカー』では「マノニグラハ・ヨーガ」と呼ばれ、これらはすべてニディディヤーサナに関わる。六、『バガヴァッド・ギーター』九・五において、「ヨーガ」という語は主あるいは自己の神秘として説かれ、「ヨーガ」と呼ばれる。すなわち、二元的な世界の全現象の基体である自己が、あたかも世界の姿をとったかのように現れながら、同時にあらゆる二元的な現象から離れている、この神秘が、ここでは「ヨーガ」として説かれているのである。
上に挙げたこれらすべての箇所において、シャンカラは「ヨーガ」という語をヴェーダーンタの真の伝統にしたがって説いているが、ラージャ・ヨーガ、パタンジャラ・ヨーガ、ハタ・ヨーガなどにおいて説かれる、いわゆるサマーディやヨーガなどは考慮に入れていない。それゆえ、自己の智という文脈において、チャクラ、ナーディー、カマラ、クンダリニー、奇跡などへの言及は一切ない。ウパニシャッドの中には、オームカーラやアハングラハなどの特殊な種類のウパーサナーが説かれている箇所があり、そこではイダー、ピンガラー、スシュムナーといったナーディーが言及されることもあり、シャンカラもヴェーダの言葉にしたがって、これらのウパーサナーの章においてはこうした術語を受け入れている。しかし自己の智あるいは実在の直証に専ら充てられた章には、チャクラ(中枢)やナーディー(微細な神経)などの語への言及はまったく見られない。
実践上の障害とその克服
アディヤートマ・ヨーガを締めくくる前に、ガウダパーダの『カーリカー』と『バガヴァッド・ギーター』にしたがい、障害とその克服の方法について論じる必要がある。
シュリー・ガウダパーダはこれらの障害を次のように挙げている。
一、ヴィクシェーパ、二、ラヤ、三、サカシャーヤ(カシャーヤ)、四、ラサースヴァーダ。
一、ヴィクシェーパ:求道者がアディヤートマ・ヨーガの実践を始めるとき、時に心は、外部の対象からの快の享受を求めて、世俗の事柄をめぐりさまよう。この心の動揺の傾向は、ヴィクシェーパと呼ばれる。求道者は、ヴァイラーギャ、すなわち無執着あるいは放棄によって、この欠陥を克服する実践をすべきである。この無執着には二種類がある。第一は、あらゆるものが苦に満ち、永遠ならざるものであることを絶えず観じることである。世俗の事物を享受しながらこれらの事実を観じることによって、人は渇望から身を引くべきである。これは放棄の半分にすぎない。仏教徒や他の学派の主唱者たちは、この種の放棄のみを説いてきた。しかしヴェーダーンタでは、求道者に対して完全な放棄が説かれる。その放棄の本性は次のとおりである。求道者は、二元性の全現象がただの虚偽の現れにすぎないことを想起すべきである。この宇宙の実在は自己であるが、人はまさにその自己を世界であると誤って考える。自己は不二であり、不生であり、絶対であり、宇宙として現れているそのときでさえそうである。それゆえ実在は常に不生である。この実在の観点からは、今この瞬間においてすら、世界というものはそれ自体として存在しない。これはここでは「不生の真理を想起すること」と呼ばれる。求道者が、生についての包括的な見方という確固たる基盤の上にこれを観じるとき、そのときにのみ彼は完全な放棄すなわちヴァイラーギャを得ることができる。
二、ラヤ:アディヤートマ・ヨーガの過程にしたがって探究を行っているとき、時に知性は鈍くなり、深い眠りへと沈み込む。この障害はタマス(惰性)によって引き起こされる。これを克服するために、心を目覚めさせ、内的には識別の過程に取り組むよう努め、外的には食事・仕事・休息・睡眠などに関する一定の規律と規則を生活の中で守るべきである。『バガヴァッド・ギーター』八・一七を参照されたい。これらの規律を外的に守ることによって、このタマスを克服することができる。
三、サカシャーヤ(カシャーヤ):時に心は立ち止まってしまう。識別の方法にしたがうこともなく、眠りに落ちることもない。この心の状態は、ヴィクシェーパの種子形態と呼ばれる。ここでは注意が一瞬でも緩められると、心はすぐにも外へと向かおうとする。この欠陥を克服するには、心を識別の軌道へと繰り返し引き戻す努力をすべきである。
四、ラサースヴァーダ:心が識別の過程に没入しているとき、その集中の帰結として、ある種の快あるいは至福が生じる。この快あるいは至福は、自己の真実の本性のうちに立つことへの妨げとなる。これはラサースヴァーダと呼ばれる。ここで「ラサ」は快を、「アースヴァーダ」はそれを享受することを意味する。この妨げを克服するには、次のような鋭い識別の過程に頼るべきである。「この快は、集中による、心に映った自己の反映にすぎない。私は自己であるから、私はこの快という概念の目撃者である。私は不二なる自己であるから、享受・享受者・享受されるものという三つ組の観念はない。私は至福の本性であり、それは深い眠りにおいて明らかである。この快は現れては消える概念にすぎない。したがってそれは、その真の本質において虚偽の現れである」。このように考えることによって、この妨げを克服することができる(『マーンドゥーキヤ・カーリカー』ガウダパーダ注、三・四〇〜四六を参照)。
これらすべての事柄は、『バガヴァッド・ギーター』において、これらの対処法を二つの群れに分類しつつ要約されている。一つは絶え間ない実践(アビヤーサ)であり、もう一つは放棄(ヴァイラーギャ)である。絶え間ない実践とは、上に述べた謙虚さ、心の浄化などを外的に観じること(『バガヴァッド・ギーター』十三・七から十一、十八・五一)であり、内的には、上に詳しく述べた識別の過程を、集中した心をもって実践することである。ヴァイラーギャは、すでに説明したガウダパーダの『カーリカー』にしたがって実践されるべきである。この二つを観じることによって、アディヤートマ・ヨーガのあらゆる妨げを克服することができる。
本書は Devarao Kulkarni 著『Adhyatma Yoga』(Adhyatma Prakasha Karyalaya, Bangalore Branch, 1980年刊)を底本としています。底本はArchive.orgにてCC BY-NC 4.0(表示 - 非営利)で公開されています。英語版から星空久音が日本語に翻訳しました。本和訳も同じく CC BY-NC 4.0 で提供します。商用利用はできません。