アディヤートマ — アディヤートマ・ヨーガ
第2章 / 目次へ
1) まず、「アディヤートマ」という語の意味を知る必要がある。アディ+アートマ=アディヤートマである。アートマという語は自己そのものを指す。そして自己の本性と同一視されるもの、その事物もまたアディヤートマと呼ばれる。たとえば、身体、生気、行為器官、感覚器官、心、知性、そして自我(知覚や感情を含む)、これらすべてを合わせて肉体的な層と呼ぶ。身体から自我に至るこれらすべての事物や要素は、ひとつのまとまりへと寄り集められている。そしてすべての生きものは、この集合体と自己を同一視し、「私はしかじかの者である」と思う。
2) 時に人は外部の事物とも自己を同一視し、「私は富める者である」「私は貧しい者である」などと感じる。しかし身体から自我に至る要素との同一視が主たるものであり、外部の事物との同一視は副次的なものにすぎない。なぜなら、人は自らの本性、あるいは自分自身を身体であると捉え、それ以外を「私のもの」と捉えるからである。時に人は、身体から自我に至るこれらの要素すら「私のもの」と考えることもある。このような振る舞いは、この人生におけるその人の関わり方にしたがって生じる。たとえば「私は色白だ」「背が高い」「背が低い」「力が強い」などと言うとき、人は自らの身体と自己を同一視している。そして「私の身体は弱ってしまった」と言うとき、人は自らの身体を対象化している。そのとき人は無自覚のうちに、身体とは異なる、身体から離れた自らの真実の本性のうちに立っている。外部の対象は「これは私のものだ」と呼ばれ、感じられるにふさわしいが、外部の事物と自己を同一視して「私」すなわち自分自身であると考えることは不可能である。しかし身体から自我に至る要素は、誰にとっても「私はこれである」と同一視されるにふさわしい。それゆえこの肉体的な層、すなわち身体から自我に至る領域は、「アディヤートミカ・プラパンチャ」(自己に属する現象世界)と呼ばれる。
3) 自己の真実の本性を探究することを主題とする学は、「アディヤートマ・シャーストラ」あるいは「アディヤートマ」と呼ばれる。すなわち、自己の本性を権威をもって主として扱う学が、「アディヤートマ」と呼ばれるのである。
4) この観点から見れば、あらゆる生きものが「私はこれである」と同一視する身体についての探究に着手する学、解剖学と生理学が、最初あるいは第一の学の群れである。次に、言語器官と感覚器官についての諸学が第二の群れとなる。それに続いて、心のさまざまな働きとその帰結を探究する学、心理学が用いられる。これが第三の群れである。同様に、知性(ブッディ、あるいはヴィジュニャーナ)とその瞬間的な働きなどの側面は、仏教において探究される。これが第四の群れである。そして最後に、ウパニシャッドは、私という感覚あるいは自我を超えた自己の真実の本性を、普遍的な(直観的な)体験という確固たる基盤の上に、生についての包括的な見方をもって探究することにより、決定する。ここでは自己についての探究は最終的な直観において極まり、探究する者、探究される対象、探究という営みという二元性の残滓は、もはや残らない。
5) したがって、自己の真実の本性についてのウパニシャッドの教えのみが、真の意味でのアディヤートマの学であり、上に述べた他の四つの群れはそうではない。それゆえ「アディヤートマ」とは、自己の真実の本性を権威をもって主として探究する学を意味する。
6) ウパニシャッドのいくつかの箇所では、自らの自己の真実の本性を認識する能力をまだ持たない求道者の益のために、瞑想の過程が説かれている。こうした文脈では、肉体的な層に関わるある種の瞑想も、聖典によって説かれている。たとえば「心は確かに無限であり、ヴィシュヴェー・デーヴァー(一群の神々)も無限である。この瞑想を通じて人は無限の世界を得る」(ブリハッド・アーラニヤカ 三・一・九)、「心はブラフマンである」(チャーンドーギヤ 三・一八・一)などである。同様に外部の事物についても瞑想が説かれ、それらは神的な層あるいは物質的な層に関わる。たとえば「太陽はブラフマンである、というのが教えである」(チャーンドーギヤ 三・二一・一)、「風は確かに帰入の場である」「生気は確かに帰入の場である」(チャーンドーギヤ 四・三・一〜四)などである。
神的な層と物質的な層についての瞑想を区別し、肉体的な層に関わる事柄を強調するために、シュルティは次のように説き始める。「そこで、(個の)自己という文脈における類比を通じた教えがある。すなわち、心がそれ(ブラフマン)へと赴くように思われるというよく知られた事実、それ(ブラフマン)が心を通じて繰り返し想起されるという事実、そしてブラフマンについて心が抱く思念、これである」(ケーナ 四・五)。ここでこのマントラは、「アディヤートマ」の瞑想についての教えを説いている。物質的な層と神的な層の事柄と区別するために、聖典は「さて、アディヤートマについての瞑想」という表現を用いる。すなわち、心などの事物についての瞑想を、ブラフマンあるいは自己の真実の本性との関係の感覚とともに行うことを意味する。
したがって、自己の真実の本性の認識の場合であれ、瞑想の場合であれ、肉体的な層に関わる内的な要素は「アディヤートミカ・プラパンチャ」と呼ばれることが確定する。しかし、われわれが「アディヤートマの学」あるいは「アディヤートマ」を主として指す場合、それは常に自己の真実の本性を確定する学を意味する。ゆえに「アディヤートマ」という語は、自己についての学を意味する。
7) 「アディヤートマ」という語は、通常「霊的な」を意味するために用いられる。この語は、霊あるいは魂であり、身体に宿り、死後に身体を去っていくものを指す。
この魂あるいは霊を扱う学は「霊的な学」あるいは「アディヤートマ・シャーストラ」と呼ばれるが、ここでもあらゆる種類の霊や活力の源泉は、自我や「私という感覚」を超えた自己の真実の本性である。それゆえ真の霊的な学とは、ひとえに自己の真実の本性を探究することにほかならない。この究極の真理はウパニシャッドにおいてのみ明かされており、体験の普遍的な承認(すなわち直観)という確固たる基盤の上に、生を包括的に精査することによって、あるがままの自己の真実の本性を明らかにする学は、このウパニシャッドの文献をおいて他にない。
8) したがって霊的な学、すなわちアディヤートマ・シャーストラは、きわめて主観的であり、生の核心そのものにまで達する独特な学である。この主観的な教えの体系は、主として十の主要なウパニシャッドと、シュリー・シャンカラの『プラスターナトラヤ・バーシュヤ』のうちに見いだされる。この主題を締めくくる前に、『ブラフマ・スートラ』注解からの一節を引いておこう。
「問い(対論者):自己が『私』という観念のうちに含まれている以上、自己がウパニシャッドのみから知られるということは証明されていない。
「答え(ヴェーダーンタ論者):そうではない。なぜなら、自己はその観念の目撃者であると述べることによって、この主張はすでに退けられているからである。行為の主体としての自己についての(誤った)知、すなわち『私』という観念のうちに含まれる知を措くならば、あらゆる生きものに存在する『私』という観念の目撃者であり、程度の差を持たず、一であり、不変であり、永遠であり、遍く行きわたる意識である(真の)自己は、有徳の行いを説く聖典の部分においても、論理学者たちの学説においても、万人に共通の自己として知られてはいない。それゆえこの自己は、誰によっても否定されえず、いかなる規定の一部として取り上げられることもない。そしてこの自己はあらゆるものの自己であるがゆえに、あらゆる拒絶と受容を超えている」(『ブラフマ・スートラ』注解一・一・四)。
9) 「マヘーシュ・ヨーギー」の「超越瞑想」や「ラージャ・ヨーガ」の秘教的な行法などの瞑想の成果、そしてやがて生じる奇跡やシャクティパータ(ある人から別の人への力の伝授)などのあらゆる実践は、霊的な利益と呼ばれる。これらはある程度までわれわれの人生において非常に有用であり、また非常に魅力的でもある。しかし真の「アディヤートマ」の学の観点からすれば、これらは永遠ならざるものである。原則はこうである。「行われ、達成されるものは、永遠ではない」。それゆえ求道者が、三つの時(過去・現在・未来)の観念を超えた永遠の真理を求めるならば、彼は必ず、生の最も内なる存在すなわち核心である自己の真実の本性についてのウパニシャッドの教えに、自らを委ねなければならない。
10) 二元性の領域、すなわち身体、心、知性、自我、そして無限の時間・空間・因果性などの観念を伴う外部世界を超えない限り、永遠の真理に到達することは不可能である。それゆえ真の求道者はこの真理を知らねばならず、物質的、神秘的、あるいは現世的な、これらすべての永遠ならざる成果から目を背けなければならない。彼は自己の真実の本性の認識に注意を定めねばならない。そのときはじめて、サンサーラ(輪廻)の束縛からの完全な解放を得ることができる。この真理は『カトーパニシャッド』において説かれている。少年ナチケータスは、死の神ヤマダルマに次のように問う。
「(ナチケータスは言った)もし私にふさわしく、また尊師もまた私を喜んでくださるならば、徳とは異なり、不徳とは異なり、原因と結果とは異なり、過去と未来とは異なる、あなたが見ておられるそのものについて、私にお話しください」(カタ 一・二・一四)。
そしてきわめて重要なことに、この永遠なる自己の真実の本性のうちにこのように確固として立つことは、自己の智に通じたグルによる教えを聴聞することによって、容易に得ることができる。グルとは、自己の真実の本性のうちに堅固に確立している者のことである。このことは同じウパニシャッドの一・二・八と一・二・九にも説かれている。カトーパニシャッドのこれらの詩節についてのシャンカラの注解を参照されたい。それゆえ、常人にとって、ウパニシャッドの教えとグルの助けなしにアディヤートマの最高の目的に到達することは、きわめて困難である。しかしもし彼が、あらゆる達成の永遠ならざる性質についての正しい放棄の観念を持ち、神あるいは主への完全な信を抱くならば、彼はふさわしいグルを得て、永遠にして不二なる自己としての自らの真実の本性を、いともたやすく認識するであろう。これがアディヤートマ・シャーストラの最終的な恩恵である。
本書は Devarao Kulkarni 著『Adhyatma Yoga』(Adhyatma Prakasha Karyalaya, Bangalore Branch, 1980年刊)を底本としています。底本はArchive.orgにてCC BY-NC 4.0(表示 - 非営利)で公開されています。英語版から星空久音が日本語に翻訳しました。本和訳も同じく CC BY-NC 4.0 で提供します。商用利用はできません。