非二元堂

序文 — アディヤートマ・ヨーガ

第1章 / 目次へ

『アディヤートマ・ヨーガ』は一九六三年、私が最初に手がけたヴェーダーンタの著作として、プラスターナトラヤ・バーシュヤ(三部の根本聖典への注解)にもとづき、カンナダ語で出版された。私はシュリー・シュリー・サッチダーナンデーンドラ・サラスヴァティー・スワーミジーの講話と、この「アディヤートマ・ヨーガ」というテーマをめぐる著作に深く魅了され、このアディヤートマ・ヨーガの独自の性格と秘密、すなわちこのアディヤートマ・ヨーガ、別名ディヤーナ・ヨーガが、ヴァストゥ・タントラ(認識する者の意志や願望に依存せず、物事をあるがままに認識すること)であって、カルトリ・タントラ(行為する者の意志や願望にしたがって行われる瞑想その他の営み)ではないという点を明らかにする書物を出したいと思うに至った。当然ながら、このアディヤートマ・ヨーガは、何かを行い、その結果を新たに得るという種類の営みには属さない。それはむしろ、シュルティ(天啓聖典)すなわちウパニシャッドの指示にしたがい、独特で類例のない集中的な観察の過程を通じて、自己の真実の本性を認識することである。

わが国にも海外にも、求道者にさまざまな瞑想の方法を授ける霊的な団体や教団は数百に及ぶ。これらの瞑想の指導者たちは、おおむね二つの立場に分かれる。一つは、瞑想という手段を通じて神秘的な体験やトランス状態などを得ることを説く立場であり、もう一つは、感情や情動など客観世界における他のあらゆる体験と同じように、自己の体験を新たに獲得すべきものとして瞑想を教える立場である。しかしこの両者は、いずれもカルトリ・タントラの瞑想、すなわち行為する者が新たに行い新たに達成すべき何かを説いており、その結果は当然、時間に縛られたものとなり、それゆえ永遠ではない。ここで扱うテーマ、すなわちディヤーナ・ヨーガ、マノニグラハ・ヨーガ、サマーディ・ヨーガ、ニディディヤーサナとも呼ばれるアディヤートマ・ヨーガは、今日ではカルトリ・タントラのサーダナ(実践)として扱われている。

しかし、シャンカラのバーシュヤ全体を通じて、このアディヤートマ・ヨーガ、すなわちディヤーナ・ヨーガはヴァストゥ・タントラのサーダナとして扱われている。ではなぜ、このような逸脱、バーシュヤの解釈からの隔たりが生じたのか。この重要な問いには、我らがスワーミジーの『マーンドゥーキヤ・ラハスヤ・ヴィヴリティ』『ギーター・シャーストラールタ・ヴィヴェーカネー』『パンチャパーディカー・プラスターナム』『ヴェーダーンタ・プラクリヤー・プラティヤビジュニャー』などのサンスクリット語による画期的な諸著作、また『シャンカラをめぐる誤解』『実在の直証』『ヴェーダーンタのある概念についての若干の説明』『ヴェーダーンタの方法をいかに見分けるか』などの英語の著作、さらに数種のカンナダ語の著作の中で、説得力をもって答えられている。

スレーシュヴァラーチャーリヤ以後にシャンカラのバーシュヤへ注解を加えた者たち、たとえばパンチャパーディカー、ヴィヴァラナ、バーマティーなどは、このアディヤートマ・ヨーガを、八支から成るパタンジャリ・ヨーガの過程と結びつけて誤って解釈してきた。シャンカラのバーシュヤでは、この八支のうち最初の五支はアディヤートマ・ヨーガに資するものとして受け入れられているが、残る三支、すなわちダーラナー、ディヤーナ、サマーディは、全面的に退けられている。私はここで、バーシュヤのさまざまな文脈で用いられる「ダーラナー」「ディヤーナ」「サマーディ」という語の正確な意味と含意を明らかにしておいた。シャンカラは、パタンジャラ学派が明確に二元論的な教説を説く一派であると、はっきりと宣言している。『ブラフマ・スートラ』注解二・一・三で彼はこう述べる。「しかしサーンキヤおよびヨーガの徒は二元論者であり、自己の一性を見ない」。これに対してバーマティーはこう言う。「シュラヴァナ(聴聞)とマナナ(思惟)はダーラナーとみなされるべきである、すなわち、自己に心を定めるべきだということである。ニディディヤーサナという語は、パタンジャラ・ヨーガのディヤーナに等しく、そこでは心の流れを中断なく自己の上に持続させるべきだとされる。ダルシャナという語は直証すなわちサークシャートカーラを意味し、求道者は一点に定まった思考の流れを通じてサマーディ、すなわちトランスに入り、最終的には心そのものが消滅するに至る」。この種の解釈は何世紀にもわたって権威あるものとみなされ、そのためアディヤートマ・ヨーガの真の性格を見極めることに人々は混乱し、自己の本性という根本の、あるいは中心の真理は、世界から完全に見失われてしまった。

その要点は次のとおりである。一、自己は、パタンジャラ・ヨーガにいうダーラナー・ディヤーナ・サマーディの結合であるサンヤマの対象には決してなり得ない。二、ヴリッティすなわちサークシャートカーラという概念は、自己の真実の本性を認識し直証するための本質的な要素ではない。自己の本性は認識する者にとって直接かつ即座のものであり、サークシャートカーラという概念は瞑想する者に属するものである以上、それはカルトリ・タントラである。ウパニシャッドで説かれるさまざまなカルトリ・タントラのウパーサナー(瞑想的観想)において、サークシャートカーラすなわち観得・直証が新たに達成されるべきものとされるのは事実である。三、これに対してニディディヤーサナ、すなわちアディヤートマ・ヨーガの性格はヴァストゥ・タントラである。自己の本性は直接かつ即座のものであるから、自己の本性を証明し確定するために、サークシャートカーラのようなヴリッティを必要としない。この三つの主な理由が、この誤解について、わがスワーミジーによって諸著作の中で示されている。

ある外国人の弟子が「アディヤートマ」と「アディヤートマ・ヨーガ」という語の正確な意味を知りたいと望み、この両語についての小論は、彼のために用意されたものである。従来カンナダ語やテルグ語の著作では「アディヤートマ・ヨーガ」のみが扱われてきたが、本書では「アディヤートマ・ヨーガ」とともに「アディヤートマ」の章を含め、さらに求道者の益のために、シュラヴァナとマナナに関わる主題を詳しく論じた付録を末尾に加えた。

本版がバンガロール支部のアディヤートマ・プラカーシャ・カーリヤーラヤより刊行され、わが師シュリー・シュリー・サッチダーナンデーンドラ・サラスヴァティー・スワーミジーの生誕百年祭という得難い吉祥の機会に、無料で頒布されることを喜ばしく思う。本版、およびカンナダ語版『アディヤートマ・ヨーガ』の著作権は、いずれもイェラハンカのシュリー・シャーンタナンダ・ヴィナーヤカスワーミー寺院ならびにシュリー・ダッタグル・シャンカラ・ヴェーダーンタ・ニラヤ・トラストに属する。トラストの関係者がこの英語版を、わが敬愛するスワーミジーの追悼のために捧げることに同意してくださったことを、うれしく思う。

この英語版の刊行と、この機会における一般への無料頒布にご尽力くださった篤志家の方々(匿名を希望されている)に、感謝を申し上げる。

また、わが師の熱心な弟子であり友人でもあるシュリー・D・B・ガンゴリ氏にも、本版の原稿の準備にあたって助力いただいたことを感謝する。本版の刊行にご協力くださったすべての方々に、全能なる神と、わが敬愛するグルジーの祝福があるよう祈る。

デーヴァラーオ・クルカルニ

1022番地、アヌグラハ、8thクロス バナシャンカリー第1ステージ バンガロール560050

1980年1月12日

本書は Devarao Kulkarni 著『Adhyatma Yoga』(Adhyatma Prakasha Karyalaya, Bangalore Branch, 1980年刊)を底本としています。底本はArchive.orgにてCC BY-NC 4.0(表示 - 非営利)で公開されています。英語版から星空久音が日本語に翻訳しました。本和訳も同じく CC BY-NC 4.0 で提供します。商用利用はできません。